ノート024市原八幡宮と中世八幡の都市形成(2)【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

櫻井敦史

第2項 中世後期荘園制下の市原八幡宮

 市原別宮が鎌倉後期に、荘園鎮守である市原荘八幡宮に変貌をとげたこと、鎌倉幕府が寺院政策の一環として別当職を設置し、これを関東護持の賞として、幕府勤仕僧に与えたと想定されることはすでに述べました。
 南北朝内乱期以降の一世紀は、室町幕府が新たな荘園制の再編を進め、その安定を得た時代です。
 本項では、このような地域編成秩序の庇護政策を背景とする、市原八幡宮別当職の推移を中心に眺めてみたいと思います。

1 鶴岡八幡宮供僧から醍醐寺僧へ

 鎌倉期における鶴岡八幡宮千南坊は、初代定暁から俊珍にいたるまで寺門僧が当主に立つ慣例でした。
 しかし俊珍が亡くなった後は東寺僧に置き替わり、代々継続しています(注釈1)。これは象徴的な出来事で、足利政権の発足に関連するものと思います。
 足利政権発足後も、俊珍は千南坊当主として鶴八幡宮社務職にあり続けました。
 市原八幡宮別当職については、俊珍が亡くなった直後の段階で、明円という僧侶の手に移っていることが確認できます(注釈3)。しかし明円の素性は現時点で不明であり、市原八幡宮別当職が俊珍から譲られたのか、幕府が何らかの事情で俊珍から召し上げ明円に与えたのかは断定できません。
 俊珍は貞和5年(1349年)6月に亡くなりますが、その直前に、東密僧元綱へ鶴岡八幡宮の社務職を譲与しています。元綱は同年10月、別当頼仲から補任を受け、正続院主たる社務職の地位を正式に得たのです(注釈2)。
 翌年(観応元年・1350年)には、室町幕府が醍醐寺地蔵院覚雄を市原八幡宮別当職に補任しました(史料1・2)。
 東寺僧元綱・醍醐寺僧覚雄の浮上は、東密寺院、特に醍醐寺勢力を庇護する京都将軍家の意向が表面化したものと捉えられます。
 ちなみに親玄・覚雄・道快の醍醐寺地蔵院主三代は、醍醐寺座主として東寺長者を兼任(注釈4)していました。室町幕府は、鎌倉幕府勤仕僧の死亡を契機に、その所職を再編したといえます。
 この点をふまえながら、史料の内容を確認してみましょう。

  • 史料1 観応元年(1350年)10月26日「室町幕府執事高師直奉書」 『宝菩提院文書』(注釈5)
    上総国市原八幡宮別当職事、所被補地蔵院僧正坊也、可被沙汰付当寺并寺領之状、依仰執達如件、
     観応元年十月廿六日 武藏守(高師直)(花押)
     当国守護

 市原八幡宮別当職に地蔵院僧正(覚雄)を補任し、市原八幡宮寺および寺領を沙汰するよう、幕府の命を武蔵守(幕府執事高師直)が奉じ、観応元年(1350年)10月26日付けで上総守護に宛てたものです。
 これと同日付けで、将軍足利尊氏が地蔵院僧正に市原八幡宮別当職を安堵した御教書の写しも近年発見されています(注釈6)。

  • 史料2 観応元年(1350年)11月18日「足利義詮御教書」 『尊経閣文書』(注釈7)
    上総国市原八幡宮別当職事、被補地蔵院僧正之間、差下使者無等閑可被致厳密沙汰謹言
     観応元
     十一月十八日 (義詮)(花押)
     播磨守殿

 史料2は史料1に続くものです。
 市原八幡宮別当職を覚雄に補任したので、現地に使者を差し下し厳密に沙汰するよう、足利義詮(足利直義に代わり幕政に就いていた)が同年11月18日付けで播磨守(鎌倉府執事高師冬)宛てに命じた御教書です。

 醍醐寺地蔵院に対する市原八幡宮別当職の安堵は、室町幕府による宗教政策再編の一環として捉えることが可能です。
 幕府が鎌倉府を超えて直接別当職を補任している点について、「旧得宗領の市原庄は室町幕府の直接支配下に置かれ」たためとの指摘がありますが(注釈8)、むしろ畿内権門寺社の関東所領に関わる訴えは幕府が受理し、鎌倉府に通達する一般的なシステムとして理解しています。
 鎌倉後期以降に多数成立した寺社別当職が存続し、補任権を室町幕府が掌握している事実は重要で、鎌倉幕府の寺社政策が踏襲されたことを暗示します。
 幕府公権の政策的側面から見れば、市原荘八幡宮別当職補任の意義に、得宗以来の連続性を強調することができるでしょう。
 ただ、室町幕府による醍醐寺勢力の庇護は、鎌倉幕府以来の権益を保有する寺社勢力への介入や更迭を伴ったと思われ、少なからぬ波紋が生じることになりました。
 市原八幡宮別当職はその好例でしょう。

2 醍醐寺と鎌倉幕府
そびえるような急勾配の入母屋屋根の醍醐寺金堂(国宝)の写真

醍醐寺金堂(国宝)

 醍醐寺勢力の関東進出は鎌倉時代前期まで遡ります。
 平氏滅亡後、醍醐寺内では親鎌倉幕府派が台頭してきました。その中核にあった第26代座主成賢は幕府との関係を深め、建暦3年(1213年)には幕府祈祷を実施し、幕府は謝礼として「御布施等」を送進しています(注釈9)。
 成賢の没後、弟子たちは成賢が培った幕府との関係を継承し、所領を獲得、あるいは醍醐寺内における自らの勢力拡張に利用したりしました。
 例えば遍智院良海は親幕派九条兼実の息ですが(注釈10)、北条義時の請所であった上総国橘木荘の上級領主(領家職か)として確認できます(注釈11)。
 また、親快流(地蔵院)と定済流(三宝院)は、成賢亡き後の醍醐寺法流正統嫡々をめぐる相論を百年以上にわたり展開しましたが(注釈12)、その過程において、それぞれが幕府との関係を深めています。

木造の柱と梁が見え、古く趣のある醍醐寺三宝院の玄関を正面から写した写真

醍醐寺三宝院

 三宝院流が定済以来、幕府に傾向する立場を維持していくのに対し(注釈13)、地蔵院流は2代目の親玄が自ら幕府勤仕僧として鎌倉に下向し、幕府と密接な関係を築きました。
 親玄は幕府の推挙で、永仁6年(1298年)と乾元2年(1303年)の二度にわたり、醍醐寺座主の地位を得ています(注釈14)。
 これは成賢以来の醍醐寺法流が地蔵院・三宝院・報恩院の三つの門跡に分散したなかで、関東護持と正統嫡々とを一体のものとする親玄の主張を、幕府が承認したものと評価されています(注釈12)。

 親玄は醍醐寺座主就任後も幕府祈祷の中核として鎌倉に在り続け、正応6年(1293年)には祈祷賞として紀伊国長尾郷、大和国丹原荘の地頭職を、さらに晩年までに越前国重富保、二上社、安芸国和木・椋梨両郷の地頭職を幕府から得ています(注釈12) 。
 なお、幕府祈祷に対する親玄の位置を示すものとして、鎌倉殿御願寺別当職への就任があります。
 彼は元亨元年(1321年)正月の鶴岡社頭における月次御修法に鎌倉永福寺別当として臨んでいますが(注釈15)、さらに晩年には久遠寿量院別当職も兼ねていました(注釈12)。
 鎌倉期の醍醐惣寺や門跡は関東護持に参画することで幕府と密接な関係を深め、寺院人事への幕府介入を他門跡間の相論に利用し、経済面では幕府から祈祷恩賞として寺社別当職や地頭職を得てきたのです。
 親玄は亡くなる直前の元亨2年(1322年)3月6日と12日、弟子宛てに譲状を遺しています。その内容は以下のとおりです。

  1. 親玄の主張する醍醐寺正嫡としての立場
     醍醐寺座主職(注釈16)と、本家三箇院家(地蔵院・清浄光院・宝蓮院)及び、成賢嫡流として主張する三宝院門跡の継承権、それを物質的に示す教蔵など
     =嫡弟覚雄に相伝(注釈17)。
  2. 親玄の幕府祈祷賞たる所領群(注釈8)
    1. 覚雄へ譲与=越前国重富保、二上社、紀伊国長尾郷、安芸国和木・椋梨両郷
       計五か所の地頭職
    2. 房玄へ譲与=大和国丹原庄地頭職
  3. 鎌倉殿御願寺の別当職
     親玄の関東護持における中心的な立場を象徴する重要な所職。
    1. 覚雄へ譲与=永福寺別当職(注釈19)
    2. 房玄へ譲与=久遠寿量院別当職(注釈20)。

 これらの相続の基本史料である『正嫡相承秘書』(注釈16・17・19)は、「京都大通寺に伝わる史料で、醍醐寺座主職の補任状や法流・諸職の譲状などの文書を収録している。鎌倉前期の遍智院成賢から十五世紀の地蔵院聖快に至る親快流の、三宝院流における正当性を主張するために作成されたと思われる」(注釈21)もので、覚雄が親玄の法流および政治的立場まで継承したことは間違いありません。鎌倉幕府勤仕の要職たる鎌倉殿御願寺別当職が地蔵院内で分与されていることからも、同門跡が親玄没後も幕府祈祷における位置を保ったものと見なせます。
 ただし親玄没後から鎌倉幕府滅亡までの11年間、覚雄が幕府祈祷に参画した形跡は史料上窺えず、幕府との積極的な関与を認めることはできません。
 親玄没後11年間における地蔵院一派の対幕関係は、覚雄の弟弟子である房玄の系統が担っていたようで、房玄の弟子あるいは弟弟子と思われる房仙が、元亨3年(1323年)に盛大に実施された北条貞時十三年忌において、中心的な役割を果たしています(注釈22)。

3 足利政権下における覚雄の新規所職取得

 建武新政権樹立後、醍醐寺五門跡のうち、報恩院・金剛院・理性院の三門跡は親後醍醐派として南朝方につきますが(注釈23)、醍醐寺法流の正嫡をそれぞれ自認する三宝院と地蔵院は、室町幕府方として武家祈祷の中核を担っています。
 覚雄も足利政権の樹立後において、親玄から相続した以外の関東所職を新規に得ていますが、これも足利将軍家と結んだ地蔵院の政治的立場を示します。
 覚雄の新規所職獲得期は、足利政権樹立から観応期、1336年から1350年代に絞られるようです。
 ちなみに足利義満の将軍就任以降は、三宝院門跡が将軍家との結束を強め、勢力を拡大していくなかで、地蔵院門跡の勢力は後退したものと思われます。

  1. 鎌倉明王院(鎌倉殿御願寺)別当職
     足利義詮から覚雄が拝領し、嫡弟道快に譲られています。
     足利義満が道快から一旦召し上げ、理性院僧正宗助に与えているものの(注釈24)、応永24年(1417年)10月21日の道快譲状に記載されており、弟子持円に譲与しています(注釈25)。
  2. 鎌倉法華堂(鎌倉殿御願寺)別当職
     覚雄の補任期は不明ですが、道快が覚雄から相続し、応永24年(1417年)10月21日、持円に譲っています(注釈25)。
  3. 市原八幡宮別当職
     鶴岡八幡宮供僧俊珍が亡くなった翌年の観応元年(1350年)、室町幕府により補任されました。(史料1・2)。
  4. 下総国小見郷木内彦五郎跡
     補任の時期は不明ですが、貞治3年(1364年)まで覚雄の所領として確認できます(注釈26)。
本殿と拝殿が繋がり、双(ならび)堂になっている権現造の飽富神社(袖ヶ浦市飯富)の外観写真

飽富神社(袖ヶ浦市飯富) 中世の飫富宮の系譜に連なる。

  1. 上総国飫富庄内飫富宮別当職
     貞治3年(1364年)、下総国小見郷木内彦五郎跡の替地として、足利基氏から補任されました。
     また、「上総国周西郡内別当所々」も飫富宮別当職に付属する得分と思われますが、在地勢力に押領されていたようで、貞治4年(1365年)2月3日に下地遵行が実施され、地蔵院雑掌快豪に打渡されています(注釈27)。
     やがて覚雄は飫富宮別当職を、応安元年(1368年)12月1日に嫡弟道快へ譲与しました(注釈28)。

 以上が覚雄の新恩地です。
 これに親玄以来の所職を加えた一覧を表1に示しました。

表1醍醐寺地蔵院門跡管領所職表(親玄-覚雄-道快の3代)
a 門跡継承と醍醐寺正嫡意識
  • 親玄から相続:1 醍醐寺座主職
  • 親玄から相続:2 本家三箇院家(地蔵院・清浄光院・宝蓮院)
  • 親玄から相続:経蔵類
b 鎌倉殿御願寺別当職
  • 親玄から相続:1 永福寺別当職
  • 覚雄が新規取得:2 明王院別当職
  • 覚雄が新規取得:3 法華堂別当職
  • 親玄から門跡内の支流に譲与:久遠寿量院別当職(房玄へ)
c 荘園鎮守社別当職
  • 親玄から相続:1 越前国重富保
  • 親玄から相続:2 同国二上社
  • 親玄から相続:3 紀伊国長尾郷
  • 親玄から相続:4 安芸国和木・椋梨両郷
  • 覚雄が新規取得:5 下総国小見郷木内彦五郎跡
  • 親玄から門跡内の支流に譲与:大和国丹原荘(房玄へ)

 ここでは、

  • 鎌倉殿御願寺別当職の比重が高いこと
  • 覚雄の新規拝領所職が関東荘園鎮守社の別当職に絞られること

の二点が注目されます。
 鎌倉殿御願寺は鎌倉幕府の寺院政策上重要な位置にあり、幕府が別当職を設定し、関東下向の顕密僧を補任して関東護持に当たらせていたことは、前回すでに述べました(詳細は下記リンクをご覧ください)。

 足利義満の代、京都にいた道快が関東護持を実施するため、鎌倉明王院の聖教霊宝等を京都・鎌倉に分置している事実(注釈24)を鑑みれば、関東護持に対する鎌倉殿御願寺別当職の重要性が足利政権下においても継続したと判断できます。
 親玄法流がこの職を四例も占有していることは、覚雄・道快を中心とする地蔵院門跡が、この時期に関東護持の中核を担ったことを示していると思います。
 関東護持に対する覚雄の関与は、先師親玄と鎌倉幕府以来の伝統性を足利幕府が認めたからに他ならず、下総国小見郷木内彦五郎跡(後に上総国飫富宮別当職と交換)、同国市原八幡宮別当職も祈祷賞として給付された可能性が高いでしょう。

4 室町幕府の荘園政策と市原八幡宮別当職

 中世後期の荘園制は、中世前期における荘園公領制の重層的・身分的な得分構成から、一円領の知行に置き換わった点に特色があります。
 これは村落の成長など、在地構造の変化に連動するもので、荘園鎮守たる市原荘八幡宮の成立もリンクすることはすでに述べました。
 国家権力側からみれば、守護や幕府の経済が荘園制たる枠組みに依存する以上、荘園領主の権益を保護しつ、新たな地域編成秩序を創立することが室町幕府の課題でした。
 室町幕府による一連の荘園立法は、延文2年の幕府追加法における「土地の半済」(注釈29)に象徴されるように、荘園領主側の職を所領として確定し、武家領との共存を図ったもので、中世後期荘園制の性質を規定するものでした。
 市原荘内においては、市原八幡宮別当職に付属する所領を巡り、観応期と応安期の2度にわたる相論がありました。
 この職は市原荘自体の本家・領家職ではありませんが、中央権門の醍醐寺地蔵院主が実質的に掌握するに至り、権益の所領化が認められるなど、一連の幕府による荘園立法に絡めての理解が可能です。
 この点に留意しながら2度の相論をながめ、別当職の性質と地蔵院による管領状況の推移を確認してみましょう。

1. 観応2年から文和3年(1351年~1354年)にかけての相論

 市原八幡宮別当職が地蔵院覚雄に与えられたのは観応元年(1350年)10月のことですが(史料1・2)、当初から旧勢力の押領でつまずき、実質的な掌握には幕府権力による強制執行を必要としました。
 観応期の相論を示す一連の史料を見てみましょう。

  • 史料3 観応2年(1351年)「武田資嗣打渡状」 『宝菩提院文書』 (『尊経閣古文書纂』)(注釈5)
    上総国市原八幡宮別当職事、任去月十七日御教書并京都御施行之旨、村上式部大夫入道相共莅彼所、沙汰付下地於地蔵院僧正御房雑掌慶尊候訖、仍渡状如件、
     観応二年七月十六日 源(武田)資嗣(花押)
  • 史料4 観応2年(1351年)「村上源清打渡状」 『宝菩提院文書』 (『尊経閣古文書纂』)(注釈5)
    上総国市原八幡宮別当職事、任去月十七日御教書并京都御施行旨、武田七郎三郎(資嗣)相共莅彼所、沙汰付下地於地蔵院僧正房雑掌慶尊候畢、仍渡候状如件、
     観応二年七月十六日 沙弥源清(村上)(花押)

 遵行使は近隣の有力国人と思われる武田・村上氏で、「去月十七日御教書并京都御施行之旨」に任せ、市原八幡宮別当職に関する下地を地蔵院雑掌慶尊に打渡したものです。
 まず、打渡の対象が「下地」と明記されていることから、市原八幡宮別当職が、その社領と同義的に扱われていたことを確認できます。
さて、ここで市原八幡宮社領は地蔵院雑掌に強制返付されたはずなのですが、被告側の抵抗は根深く、翌年には再び使節遵行が命ぜられます(史料5)。

  • 史料5 観応3年(1352年)9月14日「将軍足利尊氏御判御教書写」 『観智院金剛蔵聖教目録』 (注釈30)
    等持院殿(足利尊氏)
    地蔵院僧正坊雑掌申、上総国市原八幡宮別当職事、供僧等就申子細、先日雖遣奉書自鎌倉殿被下書札之上、雑掌所申有其謂之間、厳密停止供僧等之違乱、打渡下地お雑掌可被全所務之状、如件、
     観応三年九月十四日 御判
     千葉介(氏胤)殿

 この史料から、社領の押領が「供僧等」による仕業であることが分かります。
 後に述べたいと思いますが、市原八幡宮は別当寺を含め相当規模の基盤を有し、多くの社僧が活動拠点としていたと容易に推察されます。市原八幡宮側は、有力な供僧らが連合し、新興勢力である醍醐寺地蔵院の雑掌の入部に妨害を加えていたものと思います。
 これに対し幕府は、上総守護だった千葉氏胤に命じ、再び使節遵行による強制執行が行われたようです。
 しかし抵抗運動は終息せず、文和3年(1354年)、再び尊氏は上総守護千葉氏胤に使節遵行を命じることになります(史料6)。
 地元の勢力が幕府の補任方針にここまで抵抗しえた事実は、観応の擾乱による政界の混乱が背景にあったことでしょうが、彼らを後援する権威の存在も見逃せません。
 その具体像として、地蔵院覚雄以前に市原八幡宮別当だった明円なる僧の存在が、次の史料6から判明します。

  • 史料6 文和3年(1354年)2月5日「将軍足利尊氏御判御教書写」 『観智院金剛蔵聖教目録』(注釈30)
    等持院殿(足利尊氏)
    地蔵院僧正坊申、上総国市原八幡宮領市原庄事、先別当明円致押領之由、歎申、急速可被打渡也、
     文和三
     二月五日 御判
     千葉介(氏胤)殿

 醍醐寺地蔵院に対する在地社僧の抵抗が大きかった理由として、市原荘内に鶴岡八幡宮の勢力が浸透して久しかったことが容易に想定できます。醍醐寺勢力への別当職補任は、在地僧官たちにとって、自己の没落に結びつくと認識されたのでしょう。
 明円の素性は不明ですが、在地社僧らの支援を受け、抵抗運動の中核と見なされていることから、彼らの政治利害を代表しうる立場にあったことが推察されます。よって、鶴岡八幡宮の供僧だった可能性が高いのではないでしょうか。
 明円の名は『鶴岡八幡宮寺社務職次第』(注釈1)に見えませんが、この抵抗事件で敗北したため、「重科之仁」(史料7)として政治生命を断たれ、鶴岡八幡宮附属坊の当主などに補任されることもなく、社務職の記載から漏れたのかもしれません。
 とにかくここで再び守護勢力による強制返付が行われ、ようやく醍醐寺地蔵院覚雄は市原八幡宮領の実質的な知行を行えるようになります。

  • 史料7 文和3年(1354年)7月28日「足利義詮御判御教書写」 『観智院金剛蔵聖教目録』(注釈5)
    上総国市原八幡宮別当職・同社領市原庄地頭職事、地蔵院僧正当知行無相違上者、不可有異儀者歟、於先別当明円者為重科之仁之間、非沙汰之限哉、恐々謹言、
     文和三
     七月廿八日 義ー御判
     左馬頭(足利基氏)殿

 さて、上記の相論の経緯をまとめると、次のようになります。

 観応元年(1350年)、明円(鶴岡八幡宮供僧か)に替わって醍醐寺地蔵院覚雄が市原八幡宮別当職を得ましたが、在地社僧たちの支持を得た明円の強い抵抗があり、雑掌を派遣しても知行が困難な状態でした。
 覚雄はこれを幕府に訴え、市原荘付近に勢力を持つ国人領主武田・村上氏が守護使節として地蔵院雑掌慶尊を伴い下地を打渡しました。
 しかし現地の抵抗は根強く、観応3年(1352年)と文和3年(1354年)にも使節遵行による強制執行が行われた結果、補任から4年を経て、ようやく地蔵院による別当領の安定した知行が実現しました。

 さて、この「京都御施行」(史料3・4)から、幕府の荘園政策の一面を垣間見ることができます。

 この頃の幕府は、寺社領・本所領の一円化を図り、本所領内部に武家被官の知行地が含まれる場合、それを本所側に返付させています。
 具体策として康永2年(1343年)4月29日の幕府追加法が知られ、井原今朝男氏が寺社領本所領内部再編の動向として取り上げられています。
 法令の内容は、武家被官が寺社本所の「請所」と号し、あるいは代官請負契約を成したと称して押領することを禁止し、本所雑掌に所領を引き渡すべく定めたものです。
 さらに観応2年には追加法五五条10.が制定され、これに従わない武家被官への罰則規定が強化されています(注釈31)。
 ちなみに史料5と同日付けで地蔵院覚雄宛に発給された足利尊氏の御教書(注釈32)に、上総国市原八幡宮別当職と並記した「社領市原庄地頭職」の割注として「長崎下野入道跡」と見え、それまでの市原八幡宮社領の権益が、幕府勤仕僧の別当職と、武家領主の地頭職に重層的に分割されていた状況が見て取れます。
 観応期の市原八幡宮別当領をめぐる相論の過程で、上記の幕府政策を背景に武家被官の関与が淘汰され、市原荘内における市原八幡宮別当職権益が一円所領として確定する画期になったと思われます。

2. 応安4年の相論

 応安4年(1371年)、地蔵院法印道快が管理する「市原八幡宮社務職・同社領等」が石川左近将監の違乱を受け、神事の違乱に及びました。
 道快雑掌の訴えを受けた幕府は、管領細川頼之の奉書を関東管領上杉能憲宛に下し、所職・社領は「全雑掌之所務」として、社殿造営は先度通達したとおり沙汰するよう命じています(史料8)。

  • 史料8 応安4年(1371年)「室町幕府管領細川頼之奉書」 『前田家所蔵文書 実相院及東寺宝菩提院文書』(注釈7)
    地蔵院法印(道快)雑掌申、上総国市原八幡宮社務職・同社領等事、石川左近将監致違乱之間、神事及闕怠云々、太不可然候、所詮於所職・社領者、全雑掌之所務、至造営国役庄役差別、同造畢有無注進者、先度被申訖、彼是事行之様、可有其沙汰之状、依仰執達如件、
    應安四年九月十二日 武藏守(細川頼之)(花押)
    上椙兵部少輔入道(能憲)殿

 結果、翌応安5年(1372年)8月22日には下地遵行が実施され、左近将監朝藤が「清浄光院法印御房」の代官へ強制返付しました(史料9)。

  • 史料9 応安5年(1372年)「朝藤打渡状」 『前田家所蔵文書 実相院及東寺宝菩提院文書』(注釈7)
    市原庄事、任被仰出之旨、沙汰付下地於清浄光院法印御房代候畢、仍渡状如件、
     應安五年八月廿二日 左近將監朝藤(花押)

 まず訴人の問題について触れてみましょう。
 応安4年の奉書(史料8)では地蔵院法印(道快)が訴人側の中核と捉えられますが、翌年実際に守護使節に伴われ下地の返付を受けたのは清浄光院御房の代官です(史料9)。
 高村 隆氏はこの点に注目され、市原八幡宮別当職が応安5年を境に地蔵院から清浄光院へ移ったとし(注釈33)、小川 信氏は清浄光院法印も道快を指すものと推測されています(注釈8)。
 先に述べたように清浄光院は親玄流の相承対象として確認できるので(表1)、小川氏の推測が正しいと判断されます。
 相論は道快側の訴えに幕府が応えたことで局面が動き、道快代官への下地返付で決着したのです。
 これに対し、訴えを受けた論人は石川左近将監ですが、興味深いのは下地返付の打渡状を発給した「左近将監朝藤」が石川左近将監その人と見なせることです。
 論人自らが訴人側に打渡を実施したことになり、一般的な押領の強制返付とは異なる背景、守護による公権的な介入に絡むものではないでしょうか。
 石川左近将監は永和2年(1376年)、円覚寺造営の棟別銭徴収に関する守護使として、上総守護職上杉朝宗から遵行状を得ており、当時の上総守護代であったことが分かります(注釈34)。
 守護権力による市原荘の権益搾取(市原八幡宮別当職の職務遂行と社領の権益の侵害)が行われていた点は重要です。
 この時期は、応安半済令として知られる応安元年(1368年)6月17日の追加法により、室町幕府における荘園政策の完成期と評価されていますが(注釈31)、応安4年(1371年)の市原八幡宮社領をめぐる相論も幕府政策に関連する可能性があります。
 応安大法は「禁裏仙洞御料所・寺社一円仏神領」・「本所一円知行地」に対し半済令を除外し、「諸国本所領」では下地を本所に返還し、寺社・武家領の両立をはかるものでした。
 村井章介氏は、応安大法における「本所一円知行地」を「義詮の時代から半済や預け置きなどをまぬがれて本所が現実に知行してきた所領」であることを明確にされています(注釈35)。
 市原八幡宮の社領は、いわゆる寺社本所領として捉えられるものですが、先述のとおり観応期の争論を経て醍醐寺地蔵院の一円領として確定していらい、「市原別当職者非相論職」(注釈20)と称されたように、応安大法で示すところの「本所一円知行地」として公認されていたのではないでしょうか。しかし在地では、守護代が市原荘内における地蔵院一円知行地に対しても、応安大法における本所領保護の適用外として、実力介入したのかもしれません。
 あるいは高村・小川両氏が指摘されるように、郡課役・一国平均課役に結びつく国衙機構掌握の試みがあったのかもしれません。
 この事態に対し、幕府は本所領保護の立場から、応安大法に基づき、関東管領宛てに御教書を発給、守護使節に醍醐寺清浄光院の使者を添え、強制返付したのではないでしょうか。
 これらは推測にすぎませんが、相論に対する守護側の論理は理解しやすくなります。

 少なくともこれらの相論は、幕府荘園政策の中で理解される必要があると思います。

5 市原八幡宮別当職の性質について

 観応元年(1350年)室町幕府執事高師直奉書(史料1)によると、市原八幡宮別当職の補任に「当寺并寺領」が付属したことが分かります。
 この後、観応2年の相論(史料3・4)で地蔵院雑掌慶尊に打渡された「下地」とは奉書の「寺領」(社領)を指すものです。
 別当職への補任は、雑掌の活動本拠たる市原八幡宮とならび、その社領も交付されたことを示しますが、幕府側の言う「社領」とは、先に述べたように一連の荘園政策から別当職の権益を所領化し、寺社本所領として確定した部分を示すと考えられ、必ずしも市原八幡宮の全所領と捉える必要はありません。
 市原八幡宮別当職権益の所領化については、幕府の保護で観応期の相論過程で確定したものでした。
 観応期は寺社別当職の権益が所領として編成された一つの画期と見られます。
 例えば貞治3年(1364年)、覚雄の下総国小見郷における地頭職が飫富社の別当職に立替られており、この頃の鎮守社別当職が、所領につり合った権益と認識されていたことを示しています。恐らくこれ以降の「別当職」は、付属領を進止する権益としての用例が増えるものと思われますが、別当職が本所側にとって完全に権益化したわけではありません。
 留意すべきは市原荘における応安4年(1371年)の相論で、幕府が奉書を発給する形で介入し、所職・社領すべてを「雑掌所務」に帰することと、社殿造営を併記し命じています(史料8)。
 これは訴人道快の主張が、下地における守護権力の介入を社殿造営の妨げと見なすものであり、裏返せば道快が市原八幡宮別当として社殿造営の責務を負っていたことを示しています。
 このことから、寺社別当職は単に社領からの得分を示す権益の代名詞に止まらず、それなりの責務を伴ったことが確認できます。
 道快は応安元年(1368年)12月1日に覚雄から醍醐寺座主職と上総国内の所領を(史料10)、同2年(1369年)6月8日には管領する院家(地蔵院・清浄光院・宝蓮院)や本尊・聖教類、所職を譲与されており(史料11)、直後に幕府の安堵を得たと推測されるので、造営の実施は応安2年に決定したと考えられます。

  • 史料10 応安元年(1368年)「覚雄譲状」 『正嫡相承秘書』 二七丁(注釈36)
     於附法状并座主職譲与之状者、以久我大納言殿被書之訖、於判形者、先師僧正自筆也
    譲与
     醍醐寺座主職事
    右、座主職者、為師資相承之職譲附来者也、仍為附法嫡弟之間、代々證文等悉以令譲与道快法印者也、早申立所存可被拜補之状如件、
     應安元年十二月一日
    前大僧正在判
  • 史料11 応安2年(1369年)「覚雄譲状」 『正嫡相承秘書』 二七丁(注釈36)
    譲与
     一仏舎利并重宝等目録在判
     一秘仏秘曼陀羅以下本尊数百鋪目録在別
     一台皮子四合以下聖教数百合目録在別
     一院家所職等譲与状在別
    右、本尊聖教霊宝等者、正嫡相承之宝物師資傳来之印璽也、是則四海鎮護之舟 一流傳領之管轄也、而祖師親快法印時、三宝院経庫并遍智院経蔵之聖教、本尊、道具重宝等、悉以被運渡、于地蔵院庫蔵訖 降令相続管領者也、就中宗大事秘法大法等、口伝不貽一事為嫡弟之間、令伝附道快法印者也、仍為鄭重染燕弗之状如件、
     應安二年六月八日
    前大僧正在判

 道快は市原八幡宮社殿大規模造営の遂行を期待されたわけであり、その財力・実務面ともに評価せねばなりません。
 社殿造営は道快にとっても重要な課題であり、応永期まで棟別銭徴収の活動が追えます(史料14)。

 以上、市原八幡宮の別当職について俯瞰しました。
 これを権門寺社が有する東国寺社別当職一般の傾向として捉え、以下にまとめを記したいと思います。

 鎌倉時代後期に成立した寺社別当職の継続と補任は、政治的には得宗以来の寺社政策を足利幕府が引き継いだものとして評価できます。
 これに付属する権益は次第に一円知行権へと変化し、観応期には幕府の荘園政策に裏打ちされ、寺社本所領として確定したものと思われます。
 しかし畿内寺社による下地の保全は容易なことではなく、押領に対し幕府からの施行による強制返付が機能しなければ維持できませんでした。
 それでも14世紀後葉は所領として安定期にあったと思われます。
 「別当職」は地頭職との交換対象になるなど、領主権益を示す代名詞として度々用いられるようになりますが、荘園内に一定の実務を要求されました。社殿造営は別当職の大きな責務でした。
 実務・所領管理には雑掌が下向しており、別当職に由来する鎮守社を活動拠点にしたと考えられます。

6 応安・応永期の市原八幡宮造営について

 応安から応永期にかけて、大規模な市原八幡宮造営の動きが確認できます。
 この造営の初見史料は応安4年(1371年)9月12日「室町幕府管領細川頼之奉書」(史料8)です。
 市原荘内の相論に対し、市原八幡宮の所職・社領は地蔵院雑掌の所務とした上で、先度通達した通り造営を進めよと命じており、以前から造営計画が策定されていたこと、応安4年までに国役・庄役の注進状に基づく造営費用徴収が試みられていたことが分かります。
 造営計画は道快が覚雄から市原八幡宮別当職を譲与された応安2年(1369)に遡及する可能性が濃厚で(史料11)、その実施が道快の責務と推測し得ることは先述の通りです。
 応安4年(1371年)「奉書」(史料8)では、国役・庄役注進状の内訳までは記されていませんが、後述する応安8年(1375年)「上総国市原八幡国役庄役注進状」(史料12)とおおむね合致するでしょうから、庄役・一国平均課役・郡課役・五箇国棟別銭によったと思われます。
 これらの徴収は守護代の「違乱」のため行き詰まり、幕府の施行(史料8)から守護代の打渡(史料9)で一応決着がつきました。
 このように見ると、応安4年(1371年)の相論は造営の課役徴収に対する抵抗が大きな理由として指摘できます。
 これらの課役は小川氏が指摘されるように守護権力の協力が不可欠であり、守護代が違乱の当事者たる事態は早急に打開すべきものでした。
 しかし守護代が違乱を停止し、押領されていた市原八幡宮社領の返付を受けた応安5年(1372年)8月22日以降においても、造営を実施するだけの費用徴収は進まなかったようで、応安8年(1375年)2月10日付けで新たに「上総国市原八幡国役庄役注進状」(『三宝院文書』(史料12)が作成されたのです。

  • 史料12 応安8年(1375年)「上総国市原八幡国役庄役注進状」 『三宝院文書』(注釈7)
    注進
     上総国市原八幡宮国役庄役事
     国役分
     御宝殿一宇三間 一国平均課役
     御神輿宿一宇三間 馬野郡 海北郡
     左右六所宮二宇各三間
     一所山辺南郡 山辺北郡
     □□(一所カ)武射南郡 武射北郡

     御宮殿三基 一国平均課役
     内廻廊三十六間 同前
     正面鳥居 同前
     中門一宇三間 玉垣 井垣
     刑部郡 佐是郡 長南郡 長北郡 埴生郡
     已上五箇郡課役
     左右塀屋二宇各五間
     市東郡 市西郡
     大門一宇 山田郡 望東郡 与宇呂保
     常行三昧堂一宇三間四面 五箇国棟別□(銭カ)
    …(この間他の文書一紙あり 飛あるか)…
    庄役分
     御副殿一宇三間
     御拝殿一宇五間二面
     若宮御殿一宇三間
     宇佐宮一宇
     □□(内)宮一宇
     地主宮一宇
     今宮一宇
     □呂宇戸宮一宇
     高良宮一宇

     上若宮分
     御神宝殿一宇三間
     武内宮一宇
     高良宮一宇
     地主宮一宇
     小社四所
     御副殿一宇三間
     御庁一宇
     本堂一宇
     南経所
     北経所
    …(この間脱落あるか)…
     竃神殿一宇五間
     左右善神□
     後門鳥居
     志多羅宮一宇
     松童宮一宇
     阿蘇十二所宮一宇
     若王子宮一宇
     住吉宮一宇
     大将軍宮一宇
     外松童宮一宇
     一切経蔵一宇三間
     宝蔵一宇三間

     江日須宮一宇
     貴船宮一宇
     三郎殿宮一宇
    右注進之状如件、
     應安八年二月十日 □(盛カ)□
     執行
     □□□
     若宮神主
     高□(朝カ)(花押)
     八幡神□
     [ ]
    [ ]
     頼円(花押)
     [ ]
     [ ]
     [ ]
     源栄(花押)
     [ ]
     賢俊
     [ ]
     □ ]
     [ ]
     實 ]
    …(別に次の一紙あるも挿入個所不明)…
     外廻廊三十二間
     御膳殿一宇五間二面
     法華三昧堂二宇
     講堂一宇四間二面
     道場一宇一間四面
     鐘楼一宇三間
     白幡堂一宇
     天神宮一宇
     大食堂(宇欠カ)一十三三間
     大舞台

 この史料によると、「上総国市原八幡宮」たる造営の対象として、市原八幡宮本体と、これに付属する「上若宮」社が挙げられています。
 上若宮社は、規模表記が省略されている建物が多く(表2 2.)、市原八幡宮本体より相当小規模だったのでしょう。しかし本堂や副殿、御庁、経所など一定の建物構成を示し、独立した敷地を有した可能性があります。

表2 市原八幡宮造営内訳表(史料12から作成)
1.市原八幡宮の本体部分
建物 棟数 規模 課役 備考
常行三昧堂 1 3間 4面 五箇国棟別銭 鎌倉府管轄国
宝殿 1 3間   一国平均課役 鎌倉府管轄国
宮殿 3     一国平均課役 鎌倉府管轄国
内回廊 (1) 36間   一国平均課役 鎌倉府管轄国
正面鳥居 (1)     一国平均課役 鎌倉府管轄国
御輿宿 1 3間   郡課役 馬野郡・海北郡
六所宮 2 3間   郡課役 山辺南郡・山辺北郡・
武射南郡・武射北郡
中門 1 3間   郡課役 刑部郡・佐是郡・長南郡・
長北郡・埴生郡
玉垣 (1)     郡課役 刑部郡・佐是郡・長南郡・
長北郡・埴生郡
井垣 (1)     郡課役 刑部郡・佐是郡・長南郡・
長北郡・埴生郡
塀屋 2 5間   郡課役 市東郡・市西郡
大門 1     郡課役 山田郡・望東郡・与宇呂保
副殿 1 3間   庄役 市原荘内賦課か
拝殿 1 5間 2面 庄役 市原荘内賦課か
若宮御殿 1 3間   庄役 市原荘内賦課か
宇佐宮 1     庄役 市原荘内賦課か
□(内)宮 1     庄役 市原荘内賦課か
地主宮 1     庄役 市原荘内賦課か
今宮 1     庄役 市原荘内賦課か
□呂宇戸宮 1     庄役 市原荘内賦課か
高良宮 1     庄役 市原荘内賦課か
外回廊 (1) 32間   無記入 課役徴収完了分か
御膳殿 1 5間 2面 無記入 課役徴収完了分か
法華三昧堂 2     無記入 課役徴収完了分か
講堂 1 4間 2面 無記入 課役徴収完了分か
道場 1 1間 4面 無記入 課役徴収完了分か
鐘楼 1 3間   無記入 課役徴収完了分か
白幡堂 1     無記入 課役徴収完了分か
天神堂 1     無記入 課役徴収完了分か
大食堂 1 13間   無記入 課役徴収完了分か
大舞台 1     無記入 課役徴収完了分か

合計 建物29棟 回廊2棟 鳥居1基 門2棟 垣2か所

2. 「上若宮」の部分
建物 棟数 規模 課役 備考
神宝殿 1 3間   庄役 市原荘内賦課か
武内宮 1     庄役 市原荘内賦課か
高良宮 1     庄役 市原荘内賦課か
地主宮 1     庄役 市原荘内賦課か
小社 4か所     庄役 市原荘内賦課か
副殿 1 3間   庄役 市原荘内賦課か
御庁       庄役 市原荘内賦課か
本堂       庄役 市原荘内賦課か
南経所 (1)     庄役 市原荘内賦課か
北経所 (1)     庄役 市原荘内賦課か
竃神殿 1 5間   庄役 市原荘内賦課か
善神□ (2)     庄役 市原荘内賦課か
後門鳥居 (1)     庄役 市原荘内賦課か
志多羅宮 1     庄役 市原荘内賦課か
松童宮 1     庄役 市原荘内賦課か
阿蘇十二所宮 1     庄役 市原荘内賦課か
若王子宮 1     庄役 市原荘内賦課か
住吉宮 1     庄役 市原荘内賦課か
大将軍宮 1     庄役 市原荘内賦課か
外松童宮 1     庄役 市原荘内賦課か
一切経蔵 1 3間   庄役 市原荘内賦課か
江日須宮 1     庄役 市原荘内賦課か
貴船宮 1     庄役 市原荘内賦課か
三郎殿宮 1     庄役 市原荘内賦課か

合計 建物23棟 小社4か所 鳥居1基 

 上若宮社が市原八幡宮の付属社であることは、造営賦課が「市原八幡宮国役庄役事」として一括されていたことから明らかで、市原八幡宮が広大な敷地を占有した状況が分かります。
 上若宮社の建物群造立はすべて庄役、つまり市原荘に対する賦課で賄われたことから、通常の荘園鎮守、あるいは荘内の複数郷村からなる一定地域の鎮守たる格と言え、市原荘内の有力分社の筆頭に位置づけられるものと思います。

 これに対し市原八幡宮の主要建物群は、おおむね規模が明示されており、注進状作成にあたって重視されていたことが分かります。
 宮殿は拝殿を有し、32間・36間の回廊で囲む格式高いもので、多くの付属施設と大規模な境内を有しました。
 課役の明記されている建造物数は、庄役(市原荘負担)の9棟に対し国役(五か国棟別銭、一国平均課役、群課役)が12棟と多く見られます。
 国役の割合が高いことは、市原八幡宮が単なる荘園鎮守ではなく、イデオロギー的光源体として上総国レベルでの影響力があったことを示すものでしょう。
 とくに格式を誇示する宮殿・内回廊・宝殿・正面鳥居は一国平均課役による造営計画でした。

 一国平均課役は本来一宮造営に賦課されるもので(注釈37)、この時代における一国平均課役自体の運用拡大傾向として捉えられますが、市原八幡宮が一宮である玉前神社に替わり、実質的な上総国一宮として位置づけられている状況も見て取れます(注釈38)。

瓦屋根で黒壁、木造の建物 玉前神社(長生郡一宮町)の写真

玉前神社(長生郡一宮町)

 市原八幡宮のこのような政治的位置は、得宗専制下の幕府勤仕僧政策に直結する別当職の設置・補任まで遡及すると思われます。
 鎌倉前期の上総守護と見られる上総氏から上総千葉氏までは、玉前荘内に館を構え、上総国一宮である玉前神社を利用して惣領たる立場を固めていたと想定できますが、三浦泰村の乱に連座した千葉秀胤の滅亡後、上総の政治的中心地は国衙のある市原市域に移り、玉前神社に替わって市原八幡宮が浮上することになったのではないかと思います。

 市原八幡宮は荘園鎮守社ですが、中原親能の相論が暗示するように、市原別宮段階からいわゆる国府八幡として相当の格式を示したこともあり、荘園鎮守市原八幡宮への発展過程において玉前神社の社会地位を接木する必然性がありました。
 これは国府八幡宮として同様の発展過程を経た葛飾八幡宮の元亨元年(1321年)梵鐘銘に「下総第一鎮守」とある例(注釈39)からも理解できます。
 鎌倉幕府の勤仕僧政策に取り込まれた正応・永仁期、一宮機能を接木した市原八幡宮の地位が確固たるものになったと推測します。
 当然国衙機構との結びつきも伝統的に深いものがあり、応安5年(1372年)「市原八幡五月会馬野郡四村配分帳」 『覚園寺文書』(史料13)に見るように、神事には「権介殿」を始めとする国衙在庁が濃厚に関与する習わしになっていたことが確認できます。

  • 史料13 応安5年(1372年)「市原八幡五月会馬野郡四村配分帳」 『覚園寺文書』(注釈7)
    (端裏書)
    「上総国市原八幡宮五月会馬野郡内枝郷四ヶ村配分事」
     市原八幡宮五月會馬野郡内
     □(合カ)
    一豊成郷分
     御目代殿拾弐合一具 代三貫文
     駄所目代拾合一具 代弐貫五百文
     □□瓶□□三 代三貫弐百五十文
     一方々小瓶子七 代壱貫五十文
    一国庁分
     大瓶八 代弐貫八百文
     引物用途壱貫文
     行事分壱貫七百文
     右御神酒三瓶 菓子五合 粽三把

     御厩党 酒□瓶 菓子五合 粽三把
     鞭切 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     雑仕女 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     調所兄部 酒二(カ)瓶 菓子五合 粽三把
     金富 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     御厩党 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     已上十三貫三百文
     已上小瓶子廿
    一嶋穴郷分
     大瓶四十二合一具 十合一具 小瓶十五
     菓子卅八合粽卅五把
     惣社御分大瓶十四 引物 八百文
     権介殿 大瓶一 菓子十二合 粽十把
     調所目代 大瓶一 菓子十合 粽五把
    …(裏花押)…
     権介殿御厩党 大瓶一 菓子五合 粽三把
     已上大瓶十六
     檜物師 酒一瓶 菓子五合 粽三把
     御簾端差 酒一瓶 菓子五合 粽三把
     鮎取 酒一瓶 菓子五合 粽三把
     形木彫 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     白党馬 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     田所 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     学業院 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     修理所兄部酒二瓶 菓子五合 粽三把
     行事所 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     馬揚埒行事酒二瓶 菓子五合 粽三把
     奥 人 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     佃工所兄部酒二瓶 菓子五合 粽三把
     調集所 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     鯛細工 酒二瓶 菓子五合 粽三把
    …(裏花押)…
     先使 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     已上拾七貫五百五十文
    一青柳郷分
     大瓶二 十合一具 十二合一具 小瓶子八
     菓子卅八合
     惣社御分 大瓶九
     両社神子別当 大瓶五
     下居所 大瓶一 菓子十二合 粽十把
     御厩目代 大瓶一 菓子十合 粽五把
     已上大瓶廿二
     物申 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     紙漉 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     得元 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     雲馬 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     番匠 酒二瓶 菓子五合 粽三把
    …(裏花押)…
     装束持 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     浦兄部 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     土器師 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     已上拾壱貫参百文
    一入沼郷分
     大瓶二 十合一具 小瓶子十一 菓子卅四合
     粽卅把 
     修理所目代大瓶一 十合一具 粽五把
     惣社御分 大瓶十二
     御厩党 大瓶一 菓子五合 粽三把
     已上大瓶十四
     姉崎社 酒三瓶 菓子五合 粽三把
     承仕 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     嶋穴社 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     神宝所 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     検非違使所荒長酒二瓶 菓子五合 粽三把
    …(裏花押)…
     検非違使所兄部酒二瓶 菓子五合 粽三把
     検非違使所下部酒二瓶 菓子五合 粽三把
     経所 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     鍛冶 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     仏師 酒二瓶 菓子五合 粽三把
     已上小瓶十 已十壱貫六百文
    一郷々小切符案五月会時嶋穴社司等盛酒配分(カ)
     嶋穴郷二大瓶 青柳郷 大瓶二
     入沼大瓶一 郡本八大瓶
    已上惣都合五拾参貫七百五十文(ママ)
     應安五年五月 日
    惣都合銭五拾□□□百五十文 惣公文(花押)

 なお、「注進状」(史料12)の五か国棟別銭賦課による常行三昧堂については、3間と中規模ですが、四面廂を付す点で「道場」以外に類がなく(表2参照)、主要建物群中でも重要な位置にあったと推測されます。
 この事から市原八幡宮が天台教線の重要拠点たる側面を有したことが分かりますが、ひとまず棟別銭の賦課に注目したいと思います。

 近年の研究で、この時期の棟別銭賦課権は天皇にあり、幕府が施行命令を出し、それを遵行するのが鎌倉府や守護の義務とする重要な指摘があり(注釈31)、徴収には修造寺社側が主体的に関与し人員を派遣したことが明らかになっています(注釈40)。
 市原八幡宮造営についても棟別銭賦課は幕府の施行と見なせ、応安4年(1371年)の「管領細川頼之奉書」(史料8)が示す梃入れも、この面から理解できます。
 また、徴収については関東における道快側の積極的な活動が想像されます。
 応安4年(1371年)の相論で勝訴した道快の論理に社殿造営の遂行があり、幕府がこれを支持したことは先に述べた通りです。

 この時期は室町幕府の寺社保護により、棟別銭などの徴収権を多くの東国寺社に与えたことが明らかになっており(注釈41)、賦課事例が急増します。
 関東における棟別銭賦課の例としては、市原八幡宮を含め、表3に示す三件が知られています。

表3 寺社造営の東国棟別銭賦課事例(14世紀第4四半期)
  年代 西暦 造営(修理)対象 賦課対象国 所収
1a 応安8 1375 市原八幡宮常行三昧堂 鎌倉府管轄下の五か国 『三宝院文書』
史料12
2 永和2 1376 六条八幡宮 相模・武蔵・上総・上野・越後 『三宝院文書』
(注釈42)
3a 永和2 1376 円覚寺 安房・上総・上野・下野 『円覚寺文書』
(注釈43)
3b 至徳元 1384 円覚寺山門・方丈 上総 『円覚寺文書』
(注釈44)
1b 応永4 1397 市原八幡宮 上総 『鶴岡事書案』
史料14


 表3のNo.3a・bについては、永和2年(1376年)「関東管領上杉能憲奉書」(注釈43・44)によって円覚寺の設けた大勧進所の使者が守護使に伴い派遣され、「寺社本所領」「地頭堀内」を問わず、一国平均沙汰として賦課するよう上総守護(上杉朝宗)に厳命しています 。
 よって同時期の市原八幡宮についても、醍醐寺地蔵院の大勧進雑掌と守護使によって賦課されたものと想定できます。
 しかし応安8年(1375年)「注進状」(史料12)によると、在地の神人・神主・僧侶ら9名が「執行」として署名しているので、彼らが注進状作成などの実務面を担っていたと考えられます。
 さて、徴収の実際ですが、この期間において少なくとも数か国で重複賦課があったことになり、困難を極めたと考えられます。

中央に門があり、塀に囲まれた中にある円覚寺舎利殿(国宝)の写真

円覚寺舎利殿(国宝)

 事実、市原八幡宮と円覚寺の造営は、費用賦課の連続から相当遅延したことが分かります。
 在地勢力による抵抗が主な原因といえますが、留意すべきは賦課拒否の論理が通用したことで、上記の永和2年(1376年)「上杉能憲奉書」(注釈44・45)から逆に指摘できるように、「寺社本所領」や「地頭堀内」には棟別銭を賦課し得ないという通念が存在したことを井原氏が明確にされています(注釈31)。
 市原八幡宮造営における賦課拒否の例は、表3No.1bの応永4年(1397年)『鶴岡事書案』(史料14)に示されています。

  • 史料14 応永4年(1397年)鶴岡事書案(注釈45)
    去廿三日注進・同廿九日致来之、抑市原八幡宮造営棟別事、当社領者自元不勤他社役、謂云御教書之御□符宣之旨、旁可被除之由管領之御方へ被申之義、除状被出之、武入道奉書急可被付候
    (中略)
    棟別除状案
    市原八幡宮造営棟別事、於鶴岡八幡宮領埴生郡一野佐坪者可被止催役之由被仰出候也、
    恐々謹言
    応永四年六月六日 武兵庫入道
    正軒
    千坂弥三郎 殿

 この史料は、市原八幡宮造営の上総国棟別銭賦課を命じた御教書に対し、鶴岡八幡宮が「当社領者自元不勤他社役」として、社領埴生郡一野村、佐坪郷の賦課免除を千坂弥三郎(上総守護上杉氏の家臣)宛てに申し出たものです。
 これ以降、『鶴岡事書案』に棟別銭賦課の記述は見られないことから、結果として鶴岡八幡宮の免除要請が認可されたと思われます。
 このような状況下、市原八幡宮の造営は道快の別当職相続(応安2年・1369年)から応永期まで30年の遅延を見たのです。
 表2にあげた応安8年(1375年)「注進状」(史料12)に見る建物群すべてが落成したか否かは不明ですが、課役の一定額徴収に伴い、順次進行していったものと思います。
 「注進状」には挿入個所不明の一紙に課役無記入の建造物群が10件認められますが(表2)、国役に相当すべき外回廊や御膳殿、法華三昧堂、講堂などの主要建物が含まれますので、庄役として一括することには躊躇してしまいます。「常行三昧堂」の後ろに位置した可能性もありますが、課役明細が記されていない点で不自然です。これらは応安8年2月10日の注進状作成段階で、すでに課役徴収が完了していた件と解釈し得るのではないでしょうか。
 国役の賦課は、棟別銭で挙げたように強力な拒否論理が作用しましたが、円覚寺の例のように守護使節による強制執行措置も普通に取られ、遅延しながらも相応の成果を得ていたようです。
 市原八幡宮造営に関する一連の史料は、在地勢力による頻繁な押領のなか、国家権力の庇護下に本所側の収益も両立し得た室町期土地制度の特質を物語るもので、この時期における一国平均役拡大の意図を追及する上でも重要です。

注釈

  1.  『鶴岡八幡宮寺社務職次第』 (鶴岡八幡宮所蔵本) 貫 達人・三浦勝男編 1991年 『鶴岡叢書』第四輯 鶴岡八幡宮社務所 所収
  2. 『観智院金剛蔵聖教目録』(東寺所蔵) 文和3年(1354年)「将軍足利尊氏御判御教書写」
    (財団法人千葉県史料研究財団 2005年 『千葉県の歴史』 資料編 中世5 所収)に「先別当明円」と見える。
  3.  「鶴岡八幡宮寺供僧次第」 千南坊(注釈1)文献 所収
  4.  親玄は徳治元年(1306年)正月~10月まで、覚雄は延文4年(1359年)4月~翌年12月まで、道快は康暦2年(1380年)~永徳元年(1381年)まで三長者・至徳2年(1385年)~明徳元年(1390年)まで一長者への補任が確認できます(『東寺長者補任』巻第四 国書刊行会 1969年 『続々群書類従』第二 続群書類従刊行会 所収)
  5.  財団法人千葉県史料研究財団 2003年 『千葉県の歴史』 資料編 中世4 千葉県
  6.  観応元年(1350年)「将軍足利尊氏御判御教書写」 『観智院金剛蔵聖教目録』 財団法人千葉県史料研究財団 2005年 『千葉県の歴史』 資料編 中世5 所収(268ページ)
  7.  市原市教育委員会 1979年 『市原市史資料集』(中世編) 市原市 所収
  8.  小川 信2001年『中世都市「府中」の展開』第二章 思文閣出版 113ページ
  9.  伊藤清郎 1994年 「中世醍醐寺と公家・武家-祈祷と政治-」 羽下徳彦 『中世の政治と宗教』 吉川弘文館 所収
  10.  『尊卑分脈』 第一篇に「兼実-醍 良海 僧都 遍智院 元海資」とある(黒板勝美 1957年 『改訂増補国史大系』 第五十八巻 吉川弘文館 所収)
  11.  岡田清一 1975年 「両総における北条氏領 -補遺-」 千葉県郷土史研究連絡協議会 『房総の郷土史』 第三号 所収
  12.  石田浩子 2004年 「醍醐寺地蔵院親玄の関東下向 -鎌倉幕府勤仕僧をめぐる一考察-」 『ヒストリア』 第一九〇号 大阪歴史学会編 所収
  13.  土谷 恵 1991年 「中世初頭の醍醐寺三宝院 -座主坊の組織と運営-」 稲垣栄三 『醍醐寺の密教と社会』 山喜房仏書林 所収
  14.  平 雅行 1994年 「鎌倉仏教論」 『岩波講座日本通史』 第八巻 中世二 岩波書店
  15.  『醍醐寺日記』 貫 達人・三浦勝男 編 1978 『鶴岡社務記録』 鶴岡八幡宮社務所 所収
  16.  元亨2年(1322年)3月6日 「前大僧正親玄譲状写」 『正嫡相承秘書』一一丁 東京大学史料編纂所架蔵謄 東京大学史料編纂所所有 櫻井敦史 2005年 「市原八幡宮ち中世八幡の都市形成 -文献・考古・石造物史料から-」 資料集 財団法人市原市文化財センター 『市原市文化財センター研究紀要V』 所収
  17.  元亨2年(1322年)3月12日 「親玄譲状写」 『正嫡相承秘書』 一三丁 東京大学史料編纂所架蔵謄 東京大学史料編纂所所有
  18.  「先師大僧正遺跡得分親事」 『東寺宝菩提院三密蔵聖教』 一七九函二三号 注釈16文献所収
  19.  応永廿四年(1417年)十月廿一日「前大僧正聖快所職所領譲状案写」( 『正嫡相承秘書』 三四丁 注釈7文献所収)における地蔵院門跡の嫡流相承事項として、同職が見えます。
  20.  『観応二年日次記』五月廿二日条 注釈7文献所収
  21.  石田論文2004年(注釈12文献)の註13を引用
  22.  元亨3年(1323年) 「北条貞時十三年忌供養記」 『円覚寺文書』 鎌倉市史編纂委員会編 1956年 『鎌倉市史』 史料編第二 所収
  23.  伊藤清郎 1994年 「中世醍醐寺と公家・武家 -祈祷と政治-」 羽下徳彦 『中世の政治と宗教』 吉川弘文館 所収
  24.  至徳4年(1387年)7月「頼印申状案」 『明王院文書』 鎌倉市史編纂委員会編 1958 『鎌倉市史』 史料編第一 所収
  25.  応永24年(1417年)10月21日「前大僧正聖快所職所領譲状案写」 『正嫡相承秘書』 三四丁 注釈7文献所収
  26.  貞治3年(1364年)10月28日「鎌倉公方足利基氏御判御教書」 『尊経閣古文書纂所収宝菩提院文書』 注釈5文献所収
  27.  貞治4年(1365年)2月3日「左衛門尉基藤打渡状」 『尊経閣古文書纂所収宝菩提院文書』 注釈5文献所収
  28.  応安元年(1368年)12月26日「細川頼之書状」 『尊経閣古文書纂所収宝菩提院文書』 注釈5文献所収
  29.  佐藤進一 1974年 『日本の歴史9』 中公文庫 中央公論社
  30.  財団法人千葉県史料研究財団 2005年 『千葉県の歴史』 資料編 中世5 所収
  31.  井原今朝男 2003年 「室町期東本所領荘園の成立過程」 『国立歴史民族博物館研究報告』 第104集 国立歴史民俗博物館 所収
  32.  観応3年(1352年)「将軍足利尊氏御判御教書写」『観智院金剛蔵聖教目録』(東寺所蔵) 注釈30文献 268ページ
  33.  高村 隆 1986年 「室町将軍家と市原八幡宮」 市原市教育委員会 『市原市史』 (中巻) 市原市 第二章第二節第二項
  34.  永和2年(1376年)9月24日「関東管領上杉能憲奉書」・永和2年11月4日「上総国守護上杉朝宗遵行状」 『円覚寺文書』 (注釈7文献四四四・四四六)
  35.  村井章介 1989年 「徳政としての応安半済令」 安田元久先生退任記念論集刊行委員会 『中世日本の諸相』 下巻 吉川弘文館 所収 366ページ
  36.  注釈16文献所収
  37.  高村 隆 註34論文および伊藤喜良 1972年 「上総国中世史研究の二、三の問題点」 『地方史研究』一一八号 地方史研究協議会 所収
  38.  外山信司 1998年 「『雲玉和歌集』と上総国」 房総中世史研究所・千葉歴史学会中世史部会編 『中世房総』 第一〇号 所収
  39.  元亨元年(1321年)12月17日「葛飾八幡宮梵鐘銘」 市川市史編纂委員会 1973 『市川市史』 第5巻 所収
  40.  黒崎 敏 1998年 「棟別銭ノート」 『史学雑誌』 107編 第11号 山川出版社 所収
  41.  小森正明 1997年 「寺社の造営からみた中世後期の東国社会」 『書陵部紀要』 四八
  42.  永和2年(1376年)4月21日「後円融天皇綸旨」 『三宝院文書』 注釈6文献 四四三号
  43.  永和2年(1376年)9月24日「関東管領上杉能憲奉書」 『円覚寺文書』 (鎌倉市史編纂委員会 1956年 『鎌倉市史』 史料編 二二一四~二一七号)
  44.  至徳元年(1384年)6月25日「関東管領上杉憲方奉書」 『円覚寺文書』 (鎌倉市史編纂委員会 1956年 『鎌倉市史』 史料編 二六七・二六八号)
  45.  塙保己一 1925年 『群書類従』 第三十輯 補任部 続群書類従完成会 所収

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