菅原孝標の女の更級いちはら紀行 君塚~五井1

更新日:2022年04月18日

君塚の源頼朝伝説を訪ねる 2006年9月23日

 治承4年(1180)、伊豆国で挙兵した源頼朝は石橋山で平氏方の軍勢に敗れ、房総半島南端の安房国に逃れました。頼朝はこの後、東京湾岸を移動しながら、房総・武蔵・相模の武士団を配下に吸収しつつ鎌倉に入り、武家政権を樹立します。
 市原の古道には頼朝伝説がたくさん残ります。伝承ですから、その内容を歴史事実として鵜呑みにはできませんが、この地と鎌倉との関係を考える上では非常に参考となります。今回訪ねているメインルートにも頼朝伝説が数例あり、八幡地区の飯香岡八幡宮や君塚地区もその一つです。

腰かけている源頼朝と、跪き頭を下げている千葉常胤の後ろ姿のイラスト

源頼朝Profile

 久安3年(1147)、武士の棟梁で都を中心に活躍していた源義朝の三男として生まれる。父義朝は都の軍事権門として当時劣勢だった源氏勢力の復興をねらうが、この分野で力を付けていた平清盛一族との対立を招き、平治元年(1159)の平治の乱に発展した。義朝方は二条天皇親政派や摂津源氏の離反もあり大敗、父や兄が命を落とすなか、頼朝は伊豆国に流罪となる。ここで頼朝は有力在庁官人の北条氏に庇護される。
 一方、乱に勝利した平清盛は、後白河院の近臣として勢力を伸ばすが、平氏一門の急速な栄達は政界の不満を集め、次第に孤立する。清盛は治承3年(1179)、クーデターを起こし後白河院を幽閉、国家機構の中枢を掌握し、初の武家政権である平氏政権を完成させるが、強引な手段は反平氏運動の激化を招き、それが広い人民層の社会不満に飛び火する結果となり、全国規模の内乱状態に陥ってしまう。
 そこで伊豆国の頼朝も、治承4年(1180)に反乱軍を組織し、挙兵した。一旦は平氏方の軍勢に敗れ、海から房総半島に逃れるが、房総・武蔵・相模の武士団を配下に吸収しつつ鎌倉に入り、簒奪政権を樹立した。頼朝は鎌倉に居ながら中央と政治交渉を続け、寿永2年(1183)には東国の占領地を元の所有者に返還する代わりに、実際の支配権を得ることに成功した。ここに簒奪政権は公権力として認知されたのである。
 頼朝はその後、内乱に乗じ自立勢力を確立したライバルたちと争う過程で、これに勝ち抜きつつ、鎌倉政権の基礎を固めてゆく。奥州藤原氏の追討後、建久3年(1192)年には征夷大将軍に任命された。
 正治元年(1199)没。

君塚の源頼朝伝説

「安房から北上してきた源頼朝は、9月18日に「竹塚」という所に着く。ここには「竹の塚」という塚があり、日本武尊を祭神とする「武の塚大権現」を祀っていた。この地で千葉常胤(ちばのつねたね)一族二百余騎の参向を得た頼朝は大いに喜び、武の塚大権現に白旗を奉納したため、白幡大明神と呼ばれるようになる。また、頼朝の喜びようから、この里を「喜見塚」と呼ぶようになった。」

赤い屋根の祭神の周辺にヒガンバナや草木が咲き、落ち葉が落ちている写真

1(左) 白幡神社。社伝によれば、「日本武尊が東征のおり、この地の塚に杖を立て休憩したことから、塚を「武の塚」、村を「武の郷」と呼ぶようになった。治承4年(1180)には源頼朝が白旗を寄進し、現在の社名に変わった」といいます。頼朝に従った武士たちも矢を一筋ずつ奉納したと伝え、文政9年(1826)まで異形の鉄鏃(てつぞく)が10点残っていたそうです。この一帯には塚が点在しておりますが、中・近世に古墳群を改造したものと考えられます。頼朝伝説の「武の塚」は、白幡神社の境内にあったのでしょうか。先に述べた異形の鉄鏃も、今は形をとどめない「武の塚」から出土した古墳時代の副葬品ではないかと思います。
 メインルートの通る海岸砂堆上は、古代でも古いうちから交通の要所だったのでしょう。古墳群の広い分布がそれを物語ります。また、武(竹)は「館」(タチ)に通じることから、中世後期の君塚には領主館が構えられたと考えられ、「君塚城」として周知されています。この領主のルーツが鎌倉と深い関係にあったとすれば、頼朝伝説が作られたことも理解しやすいのですが、詳細は不明です。

アーチ車止めが設置され、左手奥にはJR線路がある写真

2(左) JR内房線の向こう側には「堀之内」という字名があり、君塚城の中心と考えられています。古墳時代から平安時代の集落、君塚西遺跡もありますが、どちらも発掘調査は行われていません。

墳丘に木々や彼岸花が咲いている様子を道路側から写した写真

君塚にはかつて多くの古墳があったと云います。頼朝伝説の「武の塚」のように、一部は消滅しましたが、いまでも数基が塚に姿を変えて残っており、「君塚古墳群」として周知されています。
3(上) 供養塚古墳(クワノ木古墳)。住宅地に残された遺跡で、古墳を三山塚に改造しています。1981年に一部を発掘調査し、墳丘内から成人女性2~3体の骨が発見されました。出土遺物には、古墳時代の土師器や、中国明代の白磁皿などがあります。横穴式石室を備えた古墳時代後期の古墳と考えられます。

墳丘に彼岸花が咲き、樹木の周辺に複数の石碑がある写真

 墳頂部 三山信仰の石碑が建ちます。

穴が開いている凝灰岩の写真

供養塚古墳出土の凝灰岩

なるみの顔のイラスト(なるみ)供養塚古墳の埋葬施設(棺の入る場所)は壊されていたんだけど、石材がたくさん見つかったので、横穴式石室があったんじゃないかと言われてるの。これがその石。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)うわっ、だれよ、こんな穴あけたの。
なるみの顔のイラスト(なるみ)これは房総中南部で採れる凝灰岩(ぎょうかいがん)で、穴は「穿孔貝」(せんこうがい)という貝があけたものなの。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)へえ。それじゃあこの石を採った場所って、かつて海に面していたのね。
なるみの顔のイラスト(なるみ)そういうこと。

穴が開いている凝灰岩を拡大した写真

 拡大写真。穴は径1~2センチメートルほどで、穿孔貝があけたもの。房総の遺跡では、鎌倉後期に伊豆の安山岩が入ってくるまで、この種の石を多用しています。

丸いテーブルに置かれた穴の開いている石をみている、なるみと菅原孝標の女のイラスト

供養塚古墳出土の凝灰岩について詳しくは下記リンクをご覧ください

大きな木々の横に車が停まっている、君塚天神山古墳周辺の様子写真

4(上) こちらは君塚天神山古墳。墳丘の残りはあまり良くありませんが、貴重な緑地として親しまれています。

信号機や横断歩道がある大きな十字路を五井方面に向かって写した写真

(上) 街道に戻り五井に向かいます。

菅原孝標の女の顔のイラストなるみの顔のイラスト(菅原孝標の女)(なるみ)次は五井を旅します。お楽しみに!

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