002東千草山遺跡のオオツタノハ製貝輪

更新日:2022年04月18日

忍澤成視

東千草山遺跡から1点の貝輪が見つかっています。弥生時代後期のものですが、素材に使われているのはオオツタノハと呼ばれる貝で、この時代・時期のものとしては珍しいものです。竪穴住居跡に堆積した貝層中から見つかりました。
弥生時代には、北関東の洞窟や再葬墓で人骨と一緒に、また南関東では洞窟内の堆積層中から見つかるものが多く、縄文時代と同じように集落内から見つかった例としては、東千草山遺跡が唯一のものとなります。貝輪の大きさは、幅57ミリメートル、上下の長さは推定80ミリメートルほど、内径の幅は37ミリメートルです。貝輪内縁や表面はよく磨かれ、写真右側部分には貝の地色である淡い桃色をわずかに確認することができます。

半円の形に加工された白と薄い黄土色の縦筋が入った貝殻の写真

東千草山遺跡出土のオオツタノハ製貝輪

 オオツタノハは日本では伊豆諸島の南部以南と大隅諸島・トカラ列島などの限られた島にしか生息しない極めて珍しい種類の貝です。また、波あたりの非常に激しい切り立った断崖に好んで生息するため、捕獲するのが難しいことも知られています。縄文時代には、すでに早期から見られますが、とくに後期以降に出土する遺跡数が増え、その分布は東日本を中心に北は北海道まで達しています。しかし、一つの遺跡から多量に出土することはないので、やはり貴重で当時かなり珍重されていたことがうかがえます。伊豆大島で、この貝を貝輪に加工した遺跡がみつかっていることや、この貝の生息域と遺物の分布状況から考えて、縄文時代のものは伊豆諸島南部の三宅島、御蔵島あたりからもってこられたものと考えられます。市内では、西広貝塚・祇園原貝塚から後期のものがいくつか見つかっています。
 さて弥生時代には、前期を中心に北九州や中国地方など西日本に、ゴホウラや大型のイモガイなどと並んでこのオオツタノハが一時貝輪の素材として大流行します。いずれも「南海産の貝類」として知られる主に南西諸島を中心とした地域に生息する貝ですから、弥生時代になると装身具素材としてこれらの貝を求め、盛んにこれらの島々と交渉があったことがうかがえます。ただし、遺物の分布の中心はあくまで西日本であり、東日本にはあまり伝わっていません。したがって、東千草山遺跡から見つかった資料は、弥生時代のものでは東端にあたるといえます。西日本と東日本の遺物の分布には断絶が認められますので、弥生時代の関東地方のオオツタノハが南西諸島から運ばれたとは安易に言えません。三宅島では、弥生時代の遺跡から未加工のオオツタノハが多数見つかっていることと、縄文以来の伝統を考えれば、伊豆諸島南部から運ばれたと考えるのが自然です。

土地に浅い四角のようなの穴が上に2つ下に2つ並んでおり、その中に石や貝殻が集まって固まった岩がある写真

オオツタノハ製貝輪が出土した竪穴住居跡

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