009中世の片又木遺跡

更新日:2022年04月18日

櫻井敦史

 片又木(かたまたぎ)遺跡は、養老川下流域左岸、標高約56メートルの洪積台地上に立地しています。一帯は不入斗(いりやまず)川・立野川に挟まれ、比較的急峻な山稜が懐深く続き、中世前期においてはまさに開発地の再奥に面したものと思われます。2003年冬、遺跡の一角からその時期の大規模な居館跡が発見されました。発掘調査の結果、鎌倉時代の寺社遺跡と推測されています。以下にその概要を紹介したいと思います。

片又木遺跡が右下にあり、左上には東京湾が写っている遺跡周辺の航空写真

 遺跡周辺の航空写真。椎津郷・不入続郷は中世の文献に見える地名です。遺跡西側の薬王寺には平安末期の仏像があり、遺跡付近から移動したと伝えられています。

1 遺跡に関わる伝承

 時期が時期だけに、直接関連する文献史料はありませんが、伝承はいくつか残っています。調査区に近接する小鷹神社(祭神日本武尊)は、この一帯を開発した「鈴木太良大夫」が守護神として奉祀し、自ら祭主を務めたとされています。寿永3年(1182年)には改めて現在地に鎮祀し、村の鎮守産土神となったと云われています。また、遺跡の南側に臨む立野川筋の道沿いには、源頼朝の通過伝承(『神社名鑑』)があり、鎌倉街道推定ルート(大谷1994年)に接続します。比較的整備されたルートとして、今回検出された大規模建物群と国衙(こくが)を繋いでいた可能性が高いと思います。さらにこの道沿い、遺跡から約500メートル西に位置する薬王寺には、平安時代後期の木造薬師如来坐像があり、市の文化財に指定されています。本遺跡の中世建物群(寺社推定)と時期的に離れない仏像の存在は特筆に値するでしょう。さらにこの仏像は、遺跡に接した「大高谷」から移動したと伝えられています(『市原郡誌』)。出土遺構群と矛盾のない治承・寿永期の伝承が多いことは、大変興味深く感じます。
 字(あざ)名としては中世遺構群と直接関わるものを確認することはできませんが、かえって遺跡が中世前期で終了することを裏付けるのではないでしょうか。調査区西側の「本宮台・宮台」は小鷹神社に関連するものですが、興味深いのは「大高」字名で、小鷹神社の「小鷹」に通じるものです。立野川沖積平地から樹枝状に入り込んだ谷の頭部「中大高」を取り巻くように分布し、中世遺構群の分布域と整合するのです。祭主を務めた開発者に祀られたと云う小鷹神社の伝承、薬王寺仏像の移動伝承などを併せ考えると、この谷頭部を特別視する風習があったのではないでしょうか。

蠍の尻尾のような形をした片又木遺跡の地形図

 遺跡の地形図。地名は現在の小字で、小鷹神社に関連するものを青字で拾いました。オレンジが発掘調査範囲。まさに谷奥の聖地です。

2 文献史料

 本遺跡を含む椎津川流域一帯は、中世後期の「不入続(いりやまず)郷」・「豊成(とよなり)郷」・「椎津(しいづ)郷」の比定地です。今回検出された中世遺構群に直接関連する開発地は、まさに遺構群を最奥とし、立野川が椎津川に合流する沖積地一帯に展開したものと思われ、「不入続郷」に含まれる可能性が高いと考えられます。ちなみに北側に隣接する「椎津郷」は、建武2年(1335年)10月23日「三浦高継寄進状」(『鶴岡八幡宮文書』)が初見史料です。椎津郷については、その苗字から椎津氏の根本私領と考えてよいと思います。椎津氏は中世後期の史料に散見される有力国人領主で、関東足利氏の伝統的被官として活動しています。一方、「不入続郷」・「豊成郷」の地頭領主は明かでありません。
 鎌倉覚園寺に伝わった応永期の年未詳「馬野郡惣勘文」(『覚園寺文書』)は、馬野郡内の公田数を書き上げたもので、「不入続郷」および西方に接する「豊成郷」の記載があります。注目すべきは末尾の割注で、「此外不入続郷云椎津知行云々、彼文書ニ文永十二正応年中カ年 御下知富[益不入]続両郷云計、」と見えますので、遺跡一帯の中世的郷村成立期は、少なくとも鎌倉時代後半の文永期以前に遡ると言えましょう。

椎津氏について

 史料の「不入続郷云椎津知行云々」から、一般には椎津氏が「不入続郷」の領主とされていますが(高村1986年)、絶対に確実とは言いかねるので、注意を要します。ここで言う「椎津」は領主名とは限らず、「不入続郷と椎津に対する知行」と解釈する余地もあるからです。以下、この点について述べてみましょう。
 ここで問題にする「知行」は「文永十二正応年中カ年 御下知」によるものです。同じく覚園寺に伝来した「馬野郡郡本富益両郷公田数覚書」(『覚園寺文書』)には、郡本・富益郷の公田役に対し、「文永十二年之由不審在之、右役正応年中安堵」とあります。これらの事項から、

  1. 文永12年(1275年)に遺跡周辺を含めた馬野郡一帯で「不審」な事態があり、国役を含めた上級領主の得分権侵害に発展したこと。
  2. この事態は正応年中(1288年から1293年)の「安堵」により解決されたこと。

の二点を指摘できます。つまり前者史料の「御下知」とは、正応年中に発給された関東下知状の存在を暗示しつつ、その内容を示すものと捉えられ、「不入続郷」の領知権を幕府から安堵された勢力の存在を暗示します。安堵の内容は国役の公使に関連した広域かつ得分的なもので、上級領主、具体的には史料の伝来した覚園寺が該当する可能性が高いと考えています。
 それにしても、文永12年の「不審」とは、いかなる事態だったのでしょうか。在地領主による横領か、あるいは宝治合戦以降、上総氏から上総千葉氏と続いた伝統的支配に替わり、新しく入部した足利氏の守護権力によるものなのか、判然としませんが、時期的には本遺跡中世遺構群の終末期と合致するものであり、遺跡の終焉に直接関連する可能性があります。

3 発掘調査の成果

縦長に上からB区C区D区E区と広がる片又木遺跡の遺構配置図

 遺跡の遺構配置図。谷最奥のC区に主殿的な建物が配されています。その奥地には弥生終末期の墳丘墓が展開しています。当時はマウンドが残っておりましたので、地域信仰の聖地だったと思われます。これを背にした空間構成は重要で、建物群を寺社関連施設と見る根拠の一つになっています。

 道路工事に先行する調査のため、南北に細長く限定された範囲のみを対象にしました。東西に伸びる台地頂部から谷を超え、南向かいの台地までメスを入れる形となり、中世前期の大規模整地が現在も谷を取り巻くように生きていることが確認されました。山深い台地上の平坦面をB区、これに接する谷奥の斜面造成面をC区、谷向かいの斜面造成面をD区、その上の尾根筋をE区に区分けしています。

地業の時期区分

中世の整地が最も大規模に行われたのがC区です。斜面地を大規模に切り土し、さらに排土を盛土して平坦面を造成したもので、地業層の観察により、1から3期にわたる時期区分が試みられています。

1期

 盛土層の直下からは、1期地業開始時に混入したと思われる渥美産甕と伊勢型鍋が出土しています。これらの生産時期は必ずしも明らかでありませんが、甕の口縁形状が常滑3型式に類似するので、12世紀末葉には地業面が形成されていたものと考えられます。ただし今回の調査では、1期に該当する建物跡は確認されませんでした。文化面が積極的に評価できる状況でないため、2期盛土とほとんど時間差はないものと捉えています。

2期

 文化面は土間併存の75号掘立柱建物跡に並行するものと思われます。文化面として機能した期間は12世紀末葉から13世紀初頭くらいでありましょうか。

3期

 整地規模が最も広く整った時期で、地業層中に複数の文化面を持ちますが、詳細は不明です。
初期は2期建て替えの土間併存建物や大面取柱から成る小規模総柱建物が建てられ、これらが大型の総柱建物に置き換わり、最盛期を迎えたようです。本地区出土遺物群の最新グループとして6a型式の常滑片口鉢I類が認められますので、文化面の機能期は13世紀前葉から後葉にかけてと思われます。
 全盛期にはD区にも掘立柱建物1棟が建造されており、広範囲に大規模な掘立柱建物群が分布したようです。これらは谷を取り巻く形で開析部に向いており、まさに開発地再奥の文化空間を構成するものでした。また、尾根筋上のE区からも同期と見られる土坑が検出されており、関連遺構が散在していた状況を窺わせます。この遺構は方形溝に付属するものにも見え、中世前期の方形区画墓だった可能性があります。もしそうだとすれば、大型建物群の展開する谷と、開発地である立野川沖積地を見下ろす景勝地に墓域を持つことになり、興味深いのですが、現時点で方形溝を中世遺構と断定することはできず、可能性に止めざるを得ない状況です。

斜めに2段になっている人6人分ほどの高さの土の崖の上に白い服を着た人が立っている写真

上 C区の整地遺構。平坦面を得るために斜面地を切り土した結果、このように切り立った崖が出現しました。崖は現在の地形として生きています。

土でできた高さ人一人分ほどの高さのある壁が縦に2列、横に2列ほどあり、その長さを測っている2名の作業員の写真

上 切り土の結果排出された土は、斜面部の盛土として活用され、広い平坦部を確保しています。作業員の足下は造成前の旧表土で、盛土の規模がいかに大きかったのかがわかります。

人一人分の高さほどある土の壁が縦横に走っており、5名の作業員が壁面にメジャーのような棒を当てたり、壁の上から手で触れたりしている写真

上 切り土の結果排出された土は、斜面部の盛土として活用され、広い平坦部を確保しています。作業員の足下は造成前の旧表土で、盛土の規模がいかに大きかったのかがわかります。

平面の整地と奥に斜めの聖地があり、平面には無数の窪みのような穴がたくさん空いている写真

上 切り土と盛土による整地面からは大型の掘立柱建物跡が発見されました。数回の建て替えを行っています。

土の中に断面が白い柱の様なものがあり、1名の作業員が柱と側面の土との間に長い金槌のような道具を入れ、見つめている写真

上 C区に出現した最初の総柱建物の柱穴には、断面8角形の柱跡が残っていました。その部分に石膏を注入し、取り出している場面。この形は「大面取」と呼ばれ、平安末期の建築に見られるようです。遺構の推定年代はやや新しいので、古材を転用した建物だった可能性があります。詳しくは次のリンクをご覧ください。

上から遺跡を見下ろし、奥には森林が広がり、手前の遺跡の整地面には無数の窪みや溝がある写真

上 こちらは谷向かいのD・E区。切り土整地面から総柱の掘立柱建物跡が1棟発見されました。こちらは1度も建て替えが行われておらず、遺跡の全盛期になって新たに構築されたものと考えられます。
 画面中央よりやや上を横断する溝は室町期の道路跡で、画面右手の方形区画溝に合流します。この区画溝は遺跡全盛期(鎌倉中期頃)に造られた方形区画墓の可能性があります。

柱の土の窪みの横に16名の作業員の方々が並び、大きさを比較している写真

上 D区の総柱建物跡。大規模でなかなか立派ですが、C区の大型建物跡に比べると、やや格が落ちるようです。

出土遺物

 ほとんどが建物の建て替えが密だったC区に集中しました。C区において、青磁13点(すべて碗、1-1類3点・1-2類6点・1-4類1点・1-5類3点)139.1グラム、青白磁3点(合子1点、皿4類1点、8類1点14.3グラム、渥美産陶器28点(壺4点・甕18点・鉢6点)1776.7グラム、常滑系陶器20点(三筋文壺1点・甕7・片口鉢1類10点《5型式2点・6a型式6点》・2類2点《7型式1点》)1,016.0グラム、カワラケ1,247点(口縁部数325点)11,398.0グラムが出土しています。総点数は1,311点で、東国の中世遺跡としては極めて多量ですが、カワラケ以外の遺物は64点でまずまずの数です。整地面に対する調査対象面積は788平方メートルで、総点数は1平米当たり1.66点、カワラケを除くと0.08点に激減します。なお、伊勢型鍋が地業直前の表土層から3点(52.2グラム)出土していますが、明らかに整地前の遺物なので、上記からは対象外にしました。
 特徴として、

  1. カワラケが圧倒的に多い。
  2. 瀬戸・美濃系製品は皆無であること。
  3. 輸入磁器は16点中13点が12世紀で、13世紀のいわゆる連弁文碗(1-5類)は3点にすぎないこと。
  4. 常滑系陶器は5から6a型式が中心であること(本遺跡出土の渥美産陶器は、常滑2から3型式並行期が中心と思われ、常滑系遺物より古い傾向がある)。
  5. カワラケを除く陶磁器類はわずか64点で、約一世紀にわたる遺跡存続期間と建物規模の割には極めて少ないこと。
  6. 煮炊具は皆無で、地業下層に認められた伊勢型鍋が引き続き使用された形跡もないこと。

などが指摘できます。

紺色の背景に、白身がかった茶色のひび割れたカワラケが、複数重なっている写真

C区出土のカワラケ

 特徴1のカワラケ出土量については、土師器の疑いがあるものを除き計量しましたので、実際の点数はさらに増えるはずです。調査区からカワラケの一括廃棄遺構は検出されておらず、直ちに饗宴使用を裏付ける根拠にはできませんが、膨大な出土量から見ても日常供膳具とは異なる「ハレ」のための消費を認めて良いと思います。
 特徴2の瀬戸・美濃系製品が出土しないことは、これらが日常雑器として普及し始める以前に建物群が廃絶したことを示し、終焉期を常滑6a型式期に捉えることと矛盾がありません。特殊品としては常滑三筋文壺がありますが、鎌倉的な瀬戸・美濃系の壺・瓶類は認められませんでした。

薄水色、灰み黄緑色の磁器の破片の写真

 C区出土の輸入磁器。青磁・白磁・青白磁があり、すべて中国で焼かれたものです。劃花文系の文様が多く、蓮弁文系はほとんどありません。

 特徴3の輸入磁器は16点出土しましたが、龍泉・同安窯系の劃花文碗が主体で、青白磁を含めても12世紀の範疇に収まるものです。これに対し13世紀の連弁文碗(1-5類)は3点のみで、輸入磁器全体の19パーセントにすぎません。遺跡自体は13世紀が最盛期なので、単に連弁文系が搬入されなかったと見るには抵抗があります。県内の調査事例を見ると、室町・戦国期の遺跡からも連弁文系は比較的目にしますが、劃花文系は稀になる傾向がありますので、前者は伝世、後者は廃棄、との見方が妥当ではないでしょうか。推測になりますが、13世紀に"鎌倉的"連弁文系青磁に対する嗜好性が高まり、劃花文系青磁と交代され、後者は所有価値がなくなり廃棄された、と考えられませんでしょうか。ただし、地方における連弁文系青磁の普及年代は必ずしも明確ではありませんので、遺跡廃絶(常滑6b型式期)以降に一般化した可能性もあります。

灰色の複数の陶器の破片の写真

 特徴4の渥美・常滑系陶器は、12世紀該当遺物が8点(常滑2型から3型式期)、13世紀が9点(5型式期以降)で、量的には両世紀が均衡します。嗜好性の高い磁器類と異なり、日常品として通常の消費形態を示すものと思います。明確に型式分類の可能な個体は少ないのですが、12世紀は渥美製品に占められています。建物群発生期(1・2期)に一括搬入された渥美製品が消耗し、3期中葉以降に常滑製品に替えられたものと捉えられます。これは定量比較において、耐久性の強い甕は渥美製品が圧倒的に多いのに対し、より消耗する鉢は常滑製品が多いことからも頷けます。裏返せば、甕が渥美から常滑製品に完全交代する前に遺跡終焉期を迎えた可能性が高いと言えそうです。
 特徴5で述べたカワラケ以外の遺物量は64点(1平方メートル当たり0.08点)と少ないですが、瀬戸・美濃系製品の普及しない時期であり、東国においては一般的な定量と判断します。

4 まとめ

中世遺構群の性格

 本遺跡は地業・建物規模から、在地における領主階級の生活遺跡であることは疑いないでしょう。具体的には寺院と地頭領主が挙げられますが、これを比定するのは困難です。開発地最奥の谷を取り巻くように展開し、古墳群(マウンドを有する方形周溝墓群)を背負う聖域的立地から、前者の可能性が高いのではないかと推定しています。
 本遺跡と同時期に斜面を切り土し、大規模掘立柱建物を持つ例として、東京都八王子市多摩ニュータウンNo692遺跡、埼玉県本庄市大久保山遺跡浅見山I地区、福井県吉田郡永平寺町諏訪間興行寺遺跡などが挙げられます。
 多摩ニュータウンNo692遺跡は、カワラケが多いこと、国産陶器の壺・瓶類が一定量認められること、建物の構造・規模、の3点を根拠に、『吾妻鏡』に見える「蓮生寺」関連施設に比定されています(斉藤1988年)。
 大久保山遺跡は、独立丘陵を取り巻く斜面地に展開した居館群ですが、中世寺院推定地区の浅見山I地区においては、他の居館地区に比べカワラケの出土量が飛躍的に多いといいます(荒川1998年)。
 諏訪間興行寺遺跡は12世紀末から16世紀にかけての遺跡で、未整理のため詳細は不明ですが、基本的に寺院遺跡と捉えられています。第1期が類例となり、出土遺物はカワラケが大半を占めますが、輸入陶磁器も一定量出土しています。城館や寺院として積極的に位置づける根拠に乏しいと報告されています(冨山2002年)。
これらの例と本遺跡を比較すると、

  1. 斜面を造成し、大型掘立柱建物を建てること。
  2. カワラケを多量消費している。

の点で類似しますが、

  1. 他の遺跡で一定量出土している特殊遺物(輸入磁器類、国産陶器の壺・瓶類など)はほとんど出土していない。

点で異なります。
 まず共通点1についてですが、大型建物を平地に建てず、敢えて山地・丘陵地に削平面を創出する必要性を考慮しますと、通常の館とは違った側面から捉えざるを得ないと思います。すなわち、純然たる開発活動の要地とはいささか異なる、山地・開発地の最奥・景勝地・水源地など、聖域的立地の選択に規制されての現象ではないでしょうか。この点からすれば、本遺跡は寺社関連に位置づけるのが自然と思います。

赤みがかったものや黒地に白い筋が入った石で作られた壺や鍋の破片が4つ並んだ写真

上 渥美産広口壺と伊勢型鍋。C区盛土地業の下層から発見されたもので、中世建物群の創建期を示す重要史料です。伊勢型鍋は東海から持ち込まれた物。渥美壺は常滑3型式期(12世紀後葉)に並行するものか。

 次に共通点2ですが、荒川正夫氏は、13世紀中葉以前の地方において、カワラケの大量消費が館ではなく寺院遺跡において認められることに着目されています。結果、この時期までは、「人と人」の契約を重視した在地武士が主従関係を確認する手段として饗宴の場を利用する必要性はなく、むしろ「人と神仏あるいは先祖」との契約を重用視した寺院においてカワラケの大量消費がなされたのではないか、と推論されています(荒川1998年)。この推論が的を射ているとすれば、本遺跡C区は寺院に関連するハレ的な場だった可能性が高くなります。

 最後に相違点3についてですが、本遺跡の場合、整地面自体の調査対象面積が少ないことと、整地面内に廃棄遺物が投入され、それらが良好に保存されるような一定規模の溝や土坑などが無かったことが原因と言えましょうか。本遺跡は地業・遺構の規模からして、嗜好性の高い特殊品が搬入されなかったとは考えられないうえ、滑石製品や碁石など、都市的な遺物も認められるため、陶磁器類の特殊品の有無のみから遺跡の性格に触れることは困難です。
 これらの点からすると、現時点では寺院関連の遺跡と捉えるのが妥当と思われます。なお、C区は2期まではカワラケの大量消費が認められず、3期からハレ的な場に転換したものと指摘されています(櫻井2004年)。これに対し、D区は3期後半期の日常的生活の場として捉えるのが妥当でありましょう。ただし3期においては、谷を取り巻く広範地域に同様の遺構群が展開したものと思われ、D区のみをもって生活遺構の様相を代表するものとは言い難いです。C区に対しても同様で、今後、谷を廻る隣接地区の調査が行われれば、遺跡の性質の核心に触れる遺構(例えば仏堂など)が検出される可能性は高いと思います。

中世前期遺構群の流れ

 まず、12世紀中葉から後葉期に大規模整地を実施し、土間を持つ掘立柱建物が構築されました。次第に整地規模を拡大しながら、鎌倉開府をはさむ治承・寿永の内乱期には、建物数が調査区内において2棟に増加します。新しく加わった1棟は土間を持たず、それ以降隆盛した総柱建物の初見となりました。カワラケの大量消費はこの時期から始まるものと思われ、建物も主殿的性格を持つものと推測されます。13世紀に入ると、建物は巨大な1棟に集約され、カワラケの消費量もピークを迎えます。遺跡の最盛期は常滑6a型式期と思われますが、それ以降の遺構・地業は認められないため、衰退期を迎えることなく、13世紀後葉段階に突然終息したようです。常滑7型式以降の遺物も微量出土していますが、文化面に伴うものではありません。これは瀬戸・美濃製の日用品が全く見出されないことからも肯定されます。文化面の終息は平和的に迎えられたものと思われ、巨大な地業・遺構規模を誇りながら、瀬戸・美濃系の壺・瓶類や13世紀の輸入磁器類が出土しないことの裏付けにもなりましょう。次の移転地に搬出された可能性が考えられるからです。

桜のような木の枝の一部に白い花がたくさん咲いている写真
紫色のドット柄の一輪のホトトギスの花の写真
緑の細いはの上に止まる一匹のトンボの写真

 なお、遺跡終焉期の文献史料に応永期「年未詳馬野郡惣勘文」があり、文永12年(1275年)に本遺跡から海岸平野に及ぶ馬野郡一帯の得分権侵害があったこと、事態の収拾後、幕府が改めて得分を安堵した対象者は鎌倉覚園寺と思われること、「不入続郷云椎津知行」に対する二解釈が提示できることなど、すでに述べたとおりです。前者の解釈(正応期以降の不入続郷の領主=地頭領主椎津氏)に立つと、上級領主の覚園寺に対し、地下は椎津氏の差配と捉えられます。ただし椎津氏は上総守護職足利氏の被官と思われ、守護権力の一端として文永12年の「不審」、ないしは正応期関東下知状に対する下地遵行・打渡行為に関わった可能性を指摘できます。つまり単なる地頭領主を超えた立場を評価する余地があるのですが、推測の域を出るものではありません。とにかく在地における巨大遺跡の消滅と、足利氏の伝統的被官として知られる椎津氏の進出、という捉え方が可能ということになります。ただし後者の解釈(「椎津」を氏名でなく「不入続郷」に並ぶ地名と見る)に立つ場合、椎津氏の関与は白紙化しなければいけません。いずれにせよ覚園寺の影響が強かったであろうことは動かないと見て良いのではないでしょうか。

 とにかくC・D区中世遺構群は、在地領主層が台頭する平安末期に創設され、「文永十二年」に近い時期、終焉を迎えたことはたしかと考えています。遺跡を寺院、寺院以外の領主館いずれに捉えるかの問題もありますが、上総氏や上総千葉氏といった在国司系の伝統的豪族領主層が衰退し、新しく入部した足利氏や有力寺院が領主的基盤を再編する過程に消滅した、中世房総史の根幹に関わる遺跡と言えましょう。

  • 市原郡教育会 1916年『千葉県市原郡誌』 千葉県市原郡役所
  • 佐藤進一 1971年『増訂鎌倉幕府守護制度の研究』 東京大学出版会
  • 高村隆 1986年「室町期の市原の荘園と村落」『市原市史』中巻第二章第三節 市原市教育委員会
  • 千葉県神社名鑑刊行委員会 1987年『千葉県神社名鑑』 千葉県神社庁
  • 斉藤 進 1988年『多摩ニュータウン遺跡』昭和61年度(第2分冊) 東京都埋蔵文化財センター
  • 大谷弘幸 1994年「西上総地域の古道跡」-いわゆる鎌倉街道を中心として-『千葉県文化財センター研究連絡誌』41 財団法人千葉県文化財センター
  • 荒川正夫 1998年『大久保山IV』 早稲田大学本庄校地文化財調査室
  • 冨山正明 2002年「諏訪間興行寺遺跡」『中世北陸の城館と寺院』第15回北陸中世考古学研究会資料集
  • 櫻井敦史 2004年『市原市片又木遺跡III』財団法人市原市文化財センター

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