ノート039海を渡った流行り病-大航海時代と姉崎棗塚遺跡-【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

小橋健司

 戦国時代、市原の沿岸部には飯香岡(市原)八幡宮周辺などに賑やかな町が形成されていました。往時の繁栄ぶりは古記録の記述だけでなく、今に伝わる地割りや地名、残された石造物などからもうかがうことができます(櫻井2005年)。
 考古学的には、発掘調査で出土する陶磁器の量や種類の豊富さを、中世集落跡の活発さのある程度の指標と見なすことができます。これまでの研究によると、市原八幡宮(JR八幡宿駅近く)近傍の御墓堂(みはかどう)遺跡が、1平方メートルあたり0.65点、新堀の小鳥向(ことりむかい)遺跡が0.2点、椎津の尾崎遺跡が0.09点というデータがあります。今回注目する姉崎棗塚(なつめづか)遺跡は1平方mあたり0.94点で、かなり活発な場であったと考えられます(櫻井2005年)。

土が掘り起こされ、遺跡の跡が形どられて、所々に大小の穴や溝がある棗塚遺跡の写真

写真1 棗塚遺跡第2次調査区(左奥:明神小学校)

あらわれた海辺の中世集落

土坑跡が赤丸で記された発掘調査を表した地図

棗塚遺跡第2次調査区全体図

 姉崎棗塚遺跡は、姉崎神社とJR姉ヶ崎駅を結ぶ線の東側、明神小学校の南側に位置し、海抜5~6メートルの砂堆上に立地します。(詳細は下記リンク「市原北部の中世遺跡」をご覧ください。)道路建設に伴い2次にわたって発掘調査が行われました。平成8年度に行われた1次調査では、中世の貝層・土坑墓(どこうぼ:遺体をそのまま穴に埋める墓)などが検出されています。
 翌平成9年度に行われた2次調査でも、鎌倉街道の一部と考えられる台地方面から海岸へと向かうルートの道路跡(左図:茶色部分)と、それに直交および平行する中世区画溝が検出されました。(詳細は下記リンク「 菅原孝標の女の更級いちはら紀行 私も歩んだ?足下に眠る平安の夢路 上総の東海道」をご覧ください。)

 1次調査区(1340平方メートル (注意)左図下側の外にあたる)では、区画は不明ですが、土坑墓3基、土坑42基、溝状遺構29条、粘土貼土坑5基、貝層、鍛冶跡、仔馬の埋葬遺構が検出されました。

 2次調査区(1830平方メートル)では、土坑墓18基、火葬墓1基、土坑159基、小竪穴6基、粘土貼土坑5基、両側溝の道路1条、溝11条が検出されました。ほとんどの遺物が穴の外の土から検出されたため、時期の確定できる遺構は少なかったのですが、陶磁器は室町時代後半以降(15世紀後半以降)のものが多く、その頃に構築されたようです。

 人骨の伴う土坑墓は、1次調査区で3基、2次調査区の道路跡の北東側から17基、南西側から1基が見つかっています。人骨は低湿な砂地の影響で遺存良好なものが多く、大部分は膝を曲げて横向きに寝かされた姿勢をとっていました。漆器・銭貨・カワラケ等の副葬品を持つものも認められます。

 これだけ墓があると、ずっと墓場だったようにも見えますが、区画に堆積した黒い土の層からは、擂鉢などの多くの陶磁器片のほか、骨角製のサイコロ・銭貨など、生活の痕跡もみとめられます。
 棗塚遺跡は、道路と、そこから派生する溝からなる土地区画を持った中世後期の集落だったようです。

2つの穴に膝を曲げ丸まった状態の人骨が発掘された写真

写真2 133・139号土坑墓

中世集落の住人

 自然人類学の専門家が鑑定した結果、棗塚遺跡の墓に眠っていた人骨は、関東地方の中世人骨の平均的な様相と一致することがわかりました。また、対象とした22体の半数以上が未成人であり、全体の3分の1が8才以下の幼児であるという年齢構成も明らかにされました。これが中世集落のどのような側面を反映しているのかは、今後、比較を重ねて解釈する必要があると思いますが、現代とは比較にならないほど乳幼児死亡率が高かったことは想像できます。
 被葬者と持ち物などとの関係を見ると、副葬品の有無は年齢層とは必ずしも一致しないらしく、六道銭(俗にいう三途の川の渡し賃)の伴う子供もあれば、カワラケの供えられた壮年女性や何も出土しない成人の例も見られます。生前の社会的立場や経済状況、死亡に至る脈絡など、年齢とは異なる社会的属性の反映する傾向があるのかもしれません。

太い骨と細い骨が並んでいる写真

写真3 病変のある人骨(左脛骨と腓骨:70号土坑墓)

大航海時代と病

 また鑑定により、70号土坑墓の人骨には病気によって変形した痕跡のあることも判明しました。しかも、その病気は当時世界的に流行した「梅毒ばいどく」の可能性があるというのです。現在は治療法も確立している病気ですが、近代までは不治とされた恐ろしい病でした。ひどい病気を患った被葬者には気の毒ですが、考古学的には大変意義深い資料と言えるでしょう。

 梅毒は、1492年にコロンブス一行がアメリカ大陸に到達した際に船員が罹患して、その帰還後にヨーロッパで大流行したとも言われている感染症です(酒井1999年、デソウィッツ1999年)。ただし、、その起源については、ヨーロッパでの人為的環境の変化(衣服の着用・衛生環境の改善等)に適応し、性病性に特殊化したトレポネーマ症の一種であるとする見方もあります(鈴木1998年)。いずれにしろ、ヨーロッパで流行した性病性の梅毒が、東アジアに驚くべき速度で伝わったことは注目すべき事実です。15世紀末にヨーロッパで猛威をふるいながら、ヴァスコ・ダ・ガマの東周りのインド航路に乗って、1498年にカルカッタ、1500年に中国広東を経て、1512(永正九)年までには関西地方に到達し、「唐瘡」・「琉球瘡」と呼ばれていたそうです。関東地方では1513年に流行したとされます(鈴木1998年)。

 整理作業が進んでいないため、70号土坑墓の年代は確定できませんが、遺物包含層から出土した古瀬戸等の陶磁器類の様相は、15世紀後葉に遺物量のピークを示します。おそらく土坑墓群も遺物の示す時期からさほど経ずして16世紀初めには構築されたのでしょう。そうすると、梅毒による骨病変のある70号土坑墓の人骨は、本州島においてまさに初源的な貴重な資料と位置づけられるのです。
 一説には種子島に火縄銃が伝わったのは1543年とされます。それをさかのぼる時期に、地球を半周以上めぐってもたらされた梅毒は、交易品のような人々の望んだものではありませんでしたが、大航海時代に世界を行き交った波紋のひとつと言えるでしょう。棗塚遺跡の出土人骨は、当時の国際的なつながりを反映する資料であり、市内沿岸部の中世集落のイメージを描く際の、たいへん興味深い材料のひとつだと思います。

参考文献

  • 酒井シヅ(編)1999年『疫病の時代』大修館書店
  • 櫻井敦史2003年「県内における中世村落の発展について-百姓居宅の区画から-」『市原市文化財センター研究紀要』IV
  • 櫻井敦史2005年「市原八幡宮と中世八幡の都市形成-文献・考古・石造物史料から-」『市原市文化財センター研究紀要』V
  • 鈴木隆雄1998年『骨から見た日本人 古病理学が語る歴史』講談社選書メチエ142
  • ロバート・S・デソウィッツ(古草秀子訳)1999年『コロンブスが持ち帰った病気 海を越えるウイルス、細菌、寄生虫』 翔泳社
  • 蜂屋孝之2000年「姉崎棗塚遺跡」『市原市文化財センター年報 平成8年度』

本コラムは、市原市文化財センター研究紀要VI(詳細は下記リンク「表:市原市文化財センター研究紀要」箇所をご覧ください)所収の「姉崎棗塚遺跡出土中世人骨の鑑定と分析について」を再構成し、加筆したものです。出土人骨の分析などの詳細については同書所収の各論文をご覧ください。

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