ノート033瓦の話 -第2回 国分寺創建以前の重圏紋-【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

高橋康男

【おさらい】

第1回目では、重圏紋のルーツが、後期難波宮の大極殿と朝堂院に葺かれた三重圏紋軒先瓦であることをご紹介しました。その上で、市原出土の重圏紋でも最も古い紋様構成を持つ武士廃寺の三重圏紋との比較を皆さんにも考えていただきたいとお願いしてあったと思います。
いかがでしたか?きっと、いくつか、気がつくことがあったことと思います。
ご一緒に、確認してみましょう。

一番目に気づいたこと

すぐに気がつくのは、中心の部分の違いです。
後期難波宮の瓦では、「右」の鏡文字が半肉彫りとなっていました。しかし、武士廃寺の重圏紋では丸いボタンのようなポッチ(珠紋)が付いています。
実は、後期難波宮出土の瓦の中には、「右」の鏡文字が無い三重圏紋も出土しています。その代表が大正二(1913)年に旧陸軍被服支廠倉庫建設工事の時に発見されたものでした。難波宮跡の発見に貢献した山根博士のことは、前回ご紹介しましたが、山根博士の発見の前に、この三重圏紋の発見がありました。山根博士は、この瓦のことを調べていくうちに、史料に出てくる難波宮や難波長柄豊碕宮が、現在の史跡の位置にあったのではないかという結論に達したのでした。
ところで、この大正二年発見の三重圏紋にも、中心部分にポッチは見られないのです。どうやら、難波宮の大極殿などの造営では、中心部分に珠紋を持たない重圏紋が葺かれたようです。

二番目に気づいたこと

二番目に気がつくことは、武士廃寺跡出土の三重圏紋の場合は、一番外側の圏線(第三圏線)が、縁の部分に近いことではないでしょうか。
中心部分に珠紋を配置したことで、全体的に外周部に圏線が押し出されて外縁ちかくに追いやられてしまったような印象を受けます。

さて、このような違いを、紋様上のバリエーションとみるのか、それとも年代の差とみるのかを考えることは、重要な問題です。もし、年代的な違いからくるものなら、後期難波宮大極殿所用瓦と市原市武士廃寺出土瓦との変化の間を繋ぐような紋様の三重圏紋がどこかの遺跡で発見されていないか、調べる必要があります。
今回の研究ノートでは、その辺に焦点をあてて考えてみたいと思いますが、その前に、市原の重圏紋を2点、ご紹介しておきましょう。

市原の重圏紋軒先瓦(1)国分寺創建瓦以前の重圏紋

市原から発見されている重圏紋軒先瓦には、つぎのようなものがあります。

  1. 武士廃寺跡から発見されている三重圏紋軒丸瓦。
  2. 上総国分尼寺跡から発掘調査で発見されている二重圏紋軒丸瓦。
  3. 上総国分僧寺跡から発掘調査で発見されている二重圏紋軒丸瓦。
  4. 上総国分僧寺跡から発掘調査で発見されている一重圏紋軒丸瓦。

また、軒平瓦にも重圏紋軒丸瓦とセットとなる平瓦があったはずです。しかし、セット関係などについては、今のところはっきりとしていません。現在、国分僧寺跡の瓦の分類を進めていますので、これからの整理分析の中で、明らかにしていく必要があります。
今回は、上から二つの重圏紋について検討していきたいと思います。
何故なら、1.と2.は、国分寺の造営以前に市原に導入された重圏紋軒丸瓦だと考えることができるからです。

武士廃寺跡表採の三重圏紋軒丸瓦

右上の一部が欠けた黒い軒先瓦の写真。

市原市武士廃寺表採重圏紋軒先瓦

今回紹介する三重圏紋軒丸瓦は、市内に在住の鈴木仲秋先生(現市原市文化財審議会委員)が武士の山の中(武士廃寺跡)から表面採取した資料です。軒先の資料は、数点あったようで一時、千葉県立千葉高校に所蔵されていました。現在は、そのうちの3点を、市原市埋蔵文化財調査センターが所蔵しています。3点とも同じ型から瓦の紋様が付けられているようです。
既にご存知のとおり、中央にポッチ(珠紋)が付けられていますが、後期難波宮所用瓦と同じ、三重圏紋の軒先瓦です。これと組み合う軒平瓦が発見されていませんので、どのような紋様の瓦だったのか、また、軒平瓦が存在したのかどうかもわかっていません。あるとしたら、どのような軒平瓦の紋様だったのかは、他の地域の出土例から考えるよりほかにありません。(この点についても、後ほど触れることとします)

データ

外縁部最大径174ミリメートル、珠紋径=約20ミリメートル、第一圏線直径=約56ミリメートル、第二圏線直径=約95ミリメートル、第三圏線直径=約135ミリメートル

史跡上総国分尼寺跡金堂院出土の二重圏紋軒丸瓦

左上の一部が欠けた灰色の軒先瓦の写真。

上総国分尼寺跡出土重圏紋軒先瓦

史跡上総国分尼寺跡尼房(大子房D期)地形最下層から出土した二重圏紋軒先瓦です。同じ型(笵)を使って造られた瓦が、金堂院の基壇や武士廃寺跡(千葉県浄水場の調査)からも出土しています。
尼寺跡出土のものは、その出土状況からみて、国分寺造営段階に造られた瓦ではなく、それ以前にどこかで使われていた瓦を転用したものと見ることができます。つまり、この二重圏紋紋軒先瓦は 、国分寺造営前の瓦と考えることができるのです。この圏線が細いタイプの二重圏紋軒先瓦については、注目すべき点が、2つあります。
まず第1点目は、国分僧寺に関することです。
上総国分僧寺跡からは、圏線の太い二重圏紋軒先瓦(次回、ご紹介します)が出土していますが、今のところ、ここに紹介したタイプの二重圏紋軒先瓦の出土は知られていません。国分寺の造営過程を考えると、国分僧寺と国分尼寺となら、僧寺の方が先に造寺体制が整っていてもおかしくありません。不思議な感じがします。
二つ目は、武士廃寺跡での状況です。同じ場所ではありませんが、この遺跡からは、先に紹介した三重圏紋軒先瓦も出土しています。

データ

外縁部最大径172ミリメートル、珠紋径約14ミリメートル、第一圏線直径55ミリメートル、第二圏線直径102ミリメートル

若干の考察

さて、市原で出土している圏線が細い2タイプの重圏紋軒先瓦について、若干の考察を加えておきたいと思います。
はじめに指摘しておかなければならないことは、この二つの重圏紋が、どちらの紋様も、市原(或いは千葉県)で独自に生まれた紋様ではないということです。非常によく似た紋様の瓦が、平城宮や平城京から出土しているからです(少し細かい話をしますと、この時期は、同じ「平城」でも「宮」で使われる瓦と、「京」で使われる瓦には少し違いがあります。何故なら、宮殿に葺かれる瓦は国営の瓦工房で専門に、特注品として造られるからです。一方、京域内の建物に葺かれる瓦は、邸宅や寺院など、建築主体によって変わってくるからです)。

6012型式と6010型式の重圏紋軒丸瓦

平城宮や平城京からは、市原の重圏紋に近い紋様として、6012型式(三重圏紋)と6010型式(二重圏紋)の瓦が出土しています。
6012型式の軒先紋様は、A~Hまでの8種類に細分されています。同紋異笵です。この中から武士廃寺出土に近いAとDを比較の対象に選んでみました。
6010型式の軒先紋様は、Aの一種類が知られています。これを、尼寺跡尼房(大子房)出土の二重圏紋との比較対象に選んでみました。
尚、6012A型式の三重圏紋軒先瓦は、これまでに32点ほど出土していて東三坊大路(左京一条)で14点、平城宮跡からは6点しかみつかっていません。一方、6010型式の二重圏紋軒先瓦も、全体で8点しかみつかっていません。そのうちの7点が平城宮跡出土のものです。平城宮跡内で最も多く見つかっているのは6012B型式の軒先瓦ですが、それでも17点にすぎません。これは、全体の数が76,553点であった時点での数次ですが、この傾向は今後も大きく変わることがないでしょうから、平城京や平城宮にとっては、非常に珍しい瓦であったことがわかります。また、宮と京とで出土状況にあまり違いがみつけられませんから、宮のために焼かれた瓦とするのは難しいでしょう。きっと、建築資材の一部として、どこかから持ち込まれたものだと考えるほうがいいと思います。
以上の状況を前提として、6012型式AとD、6010型式A、武士廃寺三重圏紋、上総国分尼寺二重圏紋を模式図にして並べたものが下図です。

6012型式AとD、6010型式A、武士廃寺三重圏紋、上総国分尼寺二重圏紋の模式図

国分寺造営以前の重圏紋とその系譜

これらの瓦の紋様を図の上で比較してみると、いくつかの傾向と指摘ができます。
三重圏紋では、中央から一番遠い第三圏線がほぼ同じ大きさなのがわかります。
第二圏線では、6012Dに比べ6012Aがやや小振りになっています。この傾向は、6010Aと尼寺出土の二重圏紋でも言えます。ところが、6012Aを基準に観てみますと、武士廃寺の三重圏紋も尼寺の二重圏紋も、ほぼ同一の大きさであることがわかります。
第一圏線について観ますと、6012Dと6010Aがほぼ同一であるのに対して、6012Aと尼寺出土がほぼ同一であることがわかります。更に、前者と後者とでは、第二圏線同様、やや小振りになっていることも指摘することができます。
珠紋(珠点)では、6012D → 6012A → 武士廃寺、6010A → 尼寺跡と、圏線とは反対に大振りに転じていることも指摘できるようです。
このような中で特に興味を引かれるのが6012Dと尼寺跡との珠点・圏線の比較です。
紋様としては三重圏紋と二重圏紋という明らかな違いが認められますが、珠紋、第一圏線、第二圏線の三点での比較では、それぞれが、ほぼ同一の大きさとなっているのです。このことは、時間的な隔たりの短さを意味しないでしょうか。今後、詳細に検討していくべき課題だと思われます。
更に、武士廃寺出土の三重圏紋を観ますと、第一圏線が6012Dと6012Aの中間的な大きさとなっています。珠紋の大振り化を認めるとするなら、武士廃寺の第一圏線は、圏線の小振り化に逆行していることになります。
今後、このようなことに注目しながら、資料の詳細な検討を進めていく必要がありますが、ここに紹介した市原の重圏紋については、三重圏紋→二重圏紋の基本的な変化は認めつつも、平城宮や平城京の資料と比較することによって、宮都系瓦の影響下に成立していることと、大きな時間的隔たりが想定しにくいことを指摘することができると思います。

次回は、上総国分寺跡から出土している二重圏紋軒先瓦で、圏線が太い二重圏紋と一重圏紋を取上げてご紹介したいと思います。

関連リンク

この記事に関するお問い合わせ先

市原歴史博物館

〒290-0011 千葉県市原市能満1489番地

電話:0436-41-9344
ファックス:0436-42-0133

メール:imuseum@city.ichihara.lg.jp

開館時間:9時00分~17時00分
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始