ノート011中世の養老川中流域【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

櫻井敦史

1 要旨

 市原市域の大部分を占める養老川流域は、上総国指折りの流域文化圏を育んできましたが、歴史について一般にあまり知られていない印象があります。強力な豪族領主や戦国大名が長期腰を据えることがなかったせいでしょうか。しかし中流域は鎌倉街道と交差し、養老川で海上流通ルートとも繋がることから、流通路の結節点として繁栄したものと思います。建造物や仏像彫刻などの有形文化財から、城館跡などの史跡にいたるまで、貴重な歴史遺産も数多く見られ、中世の雰囲気を今に伝える歴史的景勝地といえましょう。
 この地域が中世(特に前期)の史料に、どのように登場するのか、そしてどのようなことが言えるのか、概観してみたいと思います。そこには様々な生活の営みがあったはずですが、本稿では現在の農村景観につながる耕地開発について、領主と村落から眺めることにします。

2 養老川流域の立地

 清澄山系から湧き出した養老川は、洪積台地を樹枝状に開析する多くの支流と合流しながら、南総地区以南に広大な低地を生み出しました。低地のへりにはゆるやかな河岸段丘が広がり、背後に急峻な山稜が伸びる、南総地区なじみの風景を形づくっています。この低地はやがて広大な海岸平野に合流し、養老川は東京湾岸の中央部に流出します。

3 史料に見る開発地と領主

 下流域の海岸平野は、上総国府にも近いことから、古くから大規模な開墾事業が行われました。平安時代の後期には相当規模の条里水田が出現し、市原条里制遺跡として知られています。国府推定地にきわめて近く、国衙工人のものと思われる給免田や在庁名に関わる字名も残ることから、国衙主導の耕地開発地と考えられます。しかし年未詳(鎌倉末期)12月13日「長崎高資書状」に「上総国市原庄」とあることから、少なくとも鎌倉時代には「市原荘」なる荘園が存在していたことがわかります。荘園の範囲は、八幡から五井付近にわたるものですが、鎌倉期以降の開発地は条里の乱れる海岸砂堆および養老川付近の平野部が中心であったものと想像しています。条里遺跡地区は給排水路も整備されていますが、先に述べたように国衙領が多数を占めていたと推測され、下総の相馬御厨や千葉荘などに比べても全体に領主権の錯綜があったものと思います。これは市原荘に強力な在地勢力が育たなかった原因の一つと言えそうです。なお、養老川下流域南岸にも姉崎保や久吉保、今富保など、多くの郡や保、郷村などが知られています。
 さて、養老川中流域のまとまった耕地開発はいつごろなされたのでしょうか。残念ながら明確には分かっていません。しかし低地は稲作に、河岸段丘は畑作に適していることから、中世の早い段階である程度耕地化が進んだものと考えられます。
 実際に、中世前期の古文書や仏像胎内銘などにも、養老川流域の保や郷が確認できます。以下、簡単に説明してみます。

「海郷」(三和地区)

 乾元二年(1303年)4月22日「足利貞氏下文案」(『倉持文書』)によると、「市西郡内海郷」は足利氏の所領で、その管理権を「祖母一期」に限り被官の倉持氏に安堵していることが分かります。

「勝馬郷」(市津地区、厳密に言えば村田川流域になる)

 永仁4年(1296年)3月11日「足利貞氏下文案」と乾元2年(1303年)4月22日「足利貞氏下文案」(『倉持文書』)によると、「勝馬郷内小堤田畠」も足利氏の所領で、その管理権を「祖母一期」に限り被官の倉持氏に安堵しています。

「新堀郷」(三和地区)

 建武5年(1338年)6月「上総国新堀郷給主得分注文」(『金沢文庫古文書』) には、「新堀郷」に対する領主称名寺と地頭、国衙の年貢取り分が記されています。この史料によると、屋敷持ちの名百姓と、地頭の直営田経営にかり出される隷属度の高い百姓が登場し、住民の階層化を認めることができます。「政所屋敷」とあるのは、称名寺代官の拠点と思われます。地頭が代官を兼ねていた可能性もありますが、詳細は不明です。
 この他、鋳物師・猿楽など、職能民の給免田があったことも記されています。平成12年度から翌年度にかけて行われた発掘調査により、実際にこの地で鋳物師が操業していたことが確認されました。

広い芝生の広場に大きな長方形の穴があり、その中で発掘作業を行っていた跡がある写真

新堀小鳥向遺跡 中世後期、盛んに鋳物師が活動していた痕跡が確認されました。

「武市郷」(三和地区)

市指定文化財として知られる武士法泉寺観音菩薩立像の胎内銘に、「建長八年(1256年)」「武市郷」とあります。

「土宇郷」(三和地区)

嘉暦3年(1328年)12月13日「上総国土宇郷内田畠等寄進状請取状案」(『金沢文庫古文書』)によると、称名寺が「土宇郷堀内田畑山□(野)□(等)」の寄進を受けたことが分かります。周辺の状況から、寄進者は金沢氏か、金沢氏に被官化した地頭領主と思われます。

「与宇呂保」(現在の中高根一帯)

鎌倉末期、金沢北条氏が、菩提寺称名寺の運営費用として、所領の年貢高を書き上げた一連の古文書(『金沢文庫古文書』所収)に登場します。「保」とはもともと国衙領にルーツを持ちますが、当然「与宇呂保」全体が国衙領というわけではなく、相当数の私領が混在していました。金沢氏(あるいは称名寺)は国衙以外の領主、ということになりますが、文書は国衙領収益に対する得分も含めているのかもしれません。「称名寺寺用配分状」(『同上』)によると、「与宇呂保」内の金沢氏領は「上総女房御跡」と見えます。「上総女房」とは金沢氏(実泰か)の妻女で、彼女の死亡後、金沢氏から称名寺に伝領された可能性があります。

「内田郷」(南総地区)

市指定文化財として知られる宿長栄寺木造十一面観音立像の胎内銘に、「文永元年(1264年)七月二十八日」「内田郷」とあります。

「矢田・池和田村」(南総地区)

文治2年(1186年)1月1日「源頼朝下文案」(『烟田文書』)によると、源頼朝が「佐是郡内矢田・池和田両村」を「権介娘」に安堵しています。公事免除という良好な条件で、年貢所当は加々美小次郎(長清、小笠原氏の祖)に弁済とあるので、「権介娘」は加々美長清の妻となっていた上総権介広常の娘と考えられ、この一帯も広常の旧領であったことが推測できます。
上総氏は玉崎荘(現在の一宮市一帯)を本拠とし、上総全域と下総の一部に勢力を持つ極めて有力な豪族領主でした。「上総権介」職を世襲し、国衙機構を利用して勢力拡大を図ったため、市原は重要な政治拠点であり、その所領も集中したものと考えられています。上総権介広常は反乱軍の棟梁であった源頼朝に味方し、鎌倉政権の発足に貢献しました。しかし強大な勢力を誇ったため、政権運営の障害とみなされ、頼朝に誅殺されてしまいます。上総氏の武士団は解体され、遺族たちにはわずかに本領のみが安堵されました。矢田・池和田の地もその一つですが、源氏一門に嫁いだ広常の娘に対する本宅安堵と考えると、上総氏旧領のなかでもかなり重要な所領であったものと思います。
承久3年(1221年)、「矢田・池和田地頭職」は、「矢田尼」から娘の「富塚尼」に譲与され、幕府も関東下知状を発給しこれを認めています。矢田尼は先の「権介娘」本人か、またはその娘と思われます。
少なくとも二代にわたる女性地頭の活躍が目に浮かぶようです。やがて矢田郷は、婚姻によるものか、常陸平氏の行方氏に伝領されました。

「小山田村・平瀧村」(南総地区)

延元元年(1336年)6月20日「沙弥信崇譲状写」(『烟田文書』)は、沙弥信崇(行方氏)が子息と思われる平幹胤に譲与した所領の目録です。常陸・下総の行方氏領に加え、「佐是郡矢田郷」を相伝地としながら、「ただし同辻内平瀧小山田村を除く」とあり、南北朝初期に複数の村落が展開していたことが分かります。なお、この相続には、正平7年(1352年)3月16日付で「隼人佐胤茂」なる者の打渡状が付属します。打渡状とは、所領・所職などの名義変更が地元勢力の横領などで正当に行われない場合、守護代使節などが現地入部し、論所を正当な知行者に打渡し交付する文書です。したがって矢田郷については、行方氏の相伝所領であるにもかかわらず、経営は困難をきわめたものと思います。この相続に伴う打渡行為は矢田郷のみで、行方氏の根本私領たる常陸国行方郡や、本拠に近い下総国の所領については史料がありません。当時の領主にとって、直接目の届く土地は自力管理できるが、遠隔地になると困難を極め、公権力の強制執行に頼らざるを得ない状況に度々陥ったようです。南北朝の内乱期を画期にした中世前期と後期の境は、このようなところでも認められるのです。
これらの史料から、養老川中流域の開発過程がおぼろげながら見えてくるものと思います。

4 領主階級について

 村落の開発過程を考える前に、領主階級について眺めてみましょう。領主には様々な階層がありますが、土地に直接居住する領主と、そこには居住せず、代官などを派遣し、年貢の得分のみを取る領主に大別できます。特に前者は在地領主といいます。
 在地領主はその土地に本拠を持ち、直接支配する地頭領主で、室町期の国人領主なども同じ系譜にあたります。多くが開発領主およびその子孫で、土地の名を苗字にしています。これに対し、土地不在の領主は、高い階層の場合が多くあります。彼らは在地領主の所領から一定の収益を取るが、地元との関係は希薄です。有力御家人などの豪族領主や貴族、有力寺社などがこれに該当し、土地管理者の在地領主を封建的主従制下に吸収する傾向があります。なお、地頭領主クラスでも、新恩地や婚姻による相続などで、本拠から離れた所領を得る場合が普通にありました。先に述べた行方氏などはこのケースです。

石碑の左隣に四角っぽい石の塔と右隣に丸っぽい石の塔がたっている写真

常住寺の宝篋印塔と五輪塔 南北朝期の優品。鎌倉覚園寺の拠点にふさわしい文化遺産と言えます。

在地領主

 在地領主としては、養老川下流域に大坪氏・村上氏・有木氏などの有力国人領主がいました。それぞれ大坪、村上、海士有木の開発領主と思われますが、鎌倉中期以降、上総守護足利氏の被官になったようです。特に大坪・村上両氏は、南北朝から室町期に争論地に対する使節遵行を実施するなど、守護代使節ないしはそれに準ずる政治的立場を保持していました。戦国期になると、両氏は関東足利氏の伝統的被官たる一種の貴種性を背景に領域支配を貫徹させていったと思われます。
 中流域では浄住寺皆吉氏が知られています。浄住寺は現在の常住寺(中高根)の前身で、観応3年(1352年)8月3日「上総国与宇呂保浄住寺祈祷料所寄進申状案」(『金沢文庫古文書』)に見えます。この史料によると、浄住寺は鎌倉の覚園寺末として鎌倉後期に創建されたことが解ります。また、幕府の御教書を得て祈祷などを実施していることも記されており、真言律宗の教線として政治的にも重要な役割を担っていたことが解ります。

 皆吉氏は室町期の史料に現れる国人領主ですが、皆吉(南総地区)の開発領主と思われ、中世前期に起源を持つ可能性が強いと思います。応永24年(1417年)10月17日「関東管領上杉憲基施行状」(『上杉文書』)で、「皆吉伯耆守跡」の「天羽郡内萩生・作海郷」が鎌倉公方足利持氏の御料所として記載されており、皆吉氏が何らかの理由で所領を没収されたことが分かります。時期的にみて、上杉禅秀の乱に関係することは間違いないでしょう。ただし根本私領であろう皆吉の地は記載されていませんので、本領のみは安堵されたのではないでしょうか。この没収について、下地遵行・打渡行為を実施したのが大坪氏であったことも興味をそそります。やがて戦国期には、大坪氏とともに古河公方足利義氏の被官として、皆吉郷四か村を安堵されています。皆吉氏を含め、市原南部の国人領主は犬懸上杉氏との関係が濃厚で、被官化した者が多かったと思います。彼らは上杉禅秀の乱後も上総本一揆を結成し、平蔵城に立て籠もり、鎌倉府の軍勢と戦っていますが、この話はまた別の機会に送りたいと思います。
 鎌倉前期の矢田・池和田は、先述のとおり、上総氏遺族の女性地頭が支配しています。彼女は「矢田尼」と称しており、地元に居宅を持っていた可能性が濃厚です。

土地不在の領主

 中流域から下流域にさしかかる市西郡(海郷、勝馬郷一帯、市津・三和地区)は足利氏の所領でした。足利氏は平安末期から下野国足利荘に勢力を持った土着源氏で、棟梁級武士として権勢を誇りました。二代目の義兼は源頼朝の配下になり、頼朝の推挙で上総国司になっています。国衙のあった市原には義兼の代官が派遣されたはずですが、上総国在庁官人の頂点に立った上総権介広常の殺害直後でもあり、在庁官人らと足利氏がどう接触していったのか、興味をそそります。ただし、足利氏が市西郡の所領を得たのは鎌倉中期と思われ、それ以後、上総守護職を歴任しています。市西郡内の地頭領主は多くが足利氏の封建的傘下に編成されたようで、先述のように有木氏・村上氏の被官化が確認できます。
 これに対し、やや上流の中流域(新堀郷、土宇郷、与宇呂保、三和地区)は称名寺の所領でした。称名寺は有力御家人金沢氏の菩提寺なので、鎌倉中期に金沢氏領であったものが伝領されたと考えられます。称名寺の運営費用は「寺用」と称し金沢氏領からも捻出されていたので、称名寺領になった以降も、金沢氏は領知権を保持し続けた可能性が濃厚です。
 金沢氏は北条氏一門で、領主としての規模は足利氏に遠く及びませんでしたが、幕府内に強い政治力を持つ有力後家人でした。上総国では、足利氏が守護職を世襲したのに対し、金沢氏は上総国司を歴任しており、双方とも在地における政治的影響力は相当のものであったと推測されます。三和地区の地頭領主の多くを封建的影響下に置いたものと思いますが、詳細は不明です。なお、上総国の金沢氏領と称名寺領の年貢は、ほとんど鎌倉街道を経由し富津から三浦半島の六浦港に荷揚げされていたようです。三和地区はどうだったのか、養老川‐東京湾‐六浦港の水上コースか、鎌倉街道(立野ルート)‐富津港‐六浦港の山越えコースか、なかなか興味深い問題と言えます。
 与宇呂保については、先述のように覚園寺末の浄住寺が創建されているので、鎌倉後期以降、鎌倉の覚園寺も領知権を保有していたものと思われます。
 南総地区については、行方氏が領知権を持つ矢田郷の例があります。しかしどのような上級領主がいたのかは、今のところ分かっておりません。
 皆吉伯耆守が上杉禅秀の乱で所領を没収されていることから、室町期において犬懸上杉氏の政治的影響が強かったこと、長禄3年(1459年)12月「高師長本領目録」(『内閣文庫』)に「上総国内田郷」と見えることから高氏の領知権が存在したこと、などを確認できる程度です。

左手にJR内房線があり、右下に金沢氏領と丸く囲われた簡易地図のイラスト

鎌倉後期の市原北部 養老川流域に多くの郷が成立し、国衙の外周に北条得宗領と守護足利氏領が展開します。金沢氏領はその南側です。いずれも上級領主で、在地領主を被官化していた可能性が濃厚です。

戦国期を迎える領主たち

 南北朝期、土地に居住しない行方氏が所領経営に苦しんだであろうことは先に述べました。行方氏の領知権を脅かした者は、矢田郷近辺に根ざした国人領主層ではないでしょうか。彼らは、村落を構成し急激な成長をみた人民層の利害を代表する立場で、不在地主の領知を排除(横領)しつつ、土地の一円支配を成し遂げていきます。上総は常陸・下野などの北関東と違い、守護職を世襲し国人領主を統合しようとする強力な在地勢力が存在しません。国人領主たちは一揆を結成することで政治利害を代表させたのではないでしょうか。後に国人領主たちが上総本一揆をおこし平蔵城に籠もったとき、追討側の鎌倉府勢に行方(烟田)氏の姿がありました(応永25年《1418年》6月「鹿島亀谷田左近将監胤幹着到軍忠状写」『烟田文書』)。これは象徴的な出来事で、遠方の所領は、もはや軍事行動に便乗する以外、旧来の権利を守ることができなかったのでしょう。
 犬懸上杉氏が南総地区の国人領主を封建的影響下に組み込んだのは、上総守護職在任期間のことと考えられます。詳しいことは分かりませんが、国人側から見れば、足利氏の被官として、またある時は関東管領上杉氏の被官として、双方の対立を利用しながら一揆を運営していた、と言えると思います。旧来の得分権的・重層的な土地所有形態は確実に突き崩され、後述するように村落では近世の村請制に連なる自治形態が生まれつつあったはずです。
 いわゆる戦国時代の幕開けです。この直後、武田氏の入部により新しい段階を迎えますが、それは別の機会に触れたいと思います。

5 養老川中流域の中世村落と耕地開発

 平安末期から鎌倉初頭にかけての矢田・池和田地区は、豪族領主上総氏の重要な所領であったことが確認できました。しかしこの段階の「矢田・池和田村」とは、"本宅安堵"の対象たる領主館と、これを核に広がる耕地、散在する在家を包括した徴税単位にすぎないもので、在地領主に完全依存した開発スタイルであったと推測します。未だ「村落」は発生していないと見てよいでしょう。
 13世紀後半、鎌倉後期になると、多くの郷村が史料上に現れます。これにより、やや遡る13世紀前葉から中葉頃にかけてを、中世的郷村の成立期、ひいては村落成立および耕地開発の画期として捉えることができます。ことに南北朝期の新堀地区では、村落構造が複雑化し、農民の階層化が進んできたことが確認できます。排他的所有権のあろう屋敷地を構える名百姓を中心に、村主体で開発や自治を実施する素地が確実に芽生えていたものと思えます。上級領主(称名寺)・地頭領主・国衙の得分がいまだ錯綜している状況の下、彼らはしたたかに団結し、成長を遂げていったのではないでしょうか。また、鋳物師・猿楽などの職能民も活動しており、豊かな文物の流れをも垣間見ることができます。
 室町以降の村落の動向については、今のところ不明ですが、新堀郷で見た屋敷持ちの名主層などが小領主階層に成長し、自治的村落を形成していったものと推測できます。東国における戦国期村落の推移については、1980年代後半以降、文献史学において近世村落と連続して捉える新しい段階を迎えましたが、考古学的には未だ明確になっておりません。房総では15世紀後葉以降に村落が台地上に上がり、集村化する傾向が指摘されていますが、全ての村落に当てはまるか否か、検討する必要があります。今後の研究の進展が期待されます。

<市原市地方史研究連絡協議会 2006年 『市原市東海・海上・三和地区の遺跡と文化財』掲載原稿を一部改変>

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