ノート004中世石造物 宝篋印塔と五輪塔【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

櫻井敦史

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 宝篋印塔は中国の呉越国王が八万四千の金銅塔を造って諸国に伝播したものが祖形といわれています。日本にも一部が伝えられ、宝篋印陀羅尼教が納められていたことから、宝篋印塔という名称がうまれたようです。鎌倉時代中期から石を材料に大型の個体が造られるようになり、主に供養塔として機能しました。
 鎌倉時代は奈良西大寺の高僧による律宗教線の拡大が進み、その過程で多くの巨大石塔を造立しました(奈良般若寺十三重塔・京都府宇治市の浮島十三重塔(写真2)など)。これらは宋から渡来した石工の子孫である伊派が造成工事を担当しました。このほかに、伊派から分かれたと見られる大蔵派も活動を始めていますが、みな優れた意匠であり、非常に高い技術水準を誇っていたことがわかります。

画像1

写真1 箱根の多田満仲塔(1296年)
大蔵派石大工の棟梁大蔵安氏の手になるものです。

画像2

写真2 宇治の浮島十三重塔(1286年)
西大寺の中興の祖として知られる叡尊が宇治川の大橋再建に伴い建立した日本最大の石造物です。

 関東の石造宝篋印塔は、茨城県つくば市の宝篋山にあるものが最古の例です。この塔が忍性(奈良西大寺の高僧)の引き連れてきた西大寺系石工集団により造立されたことは確実と見られ、恐らく大蔵派の作品ではないかと思います。これに続き、永仁2年(1296)に造立された箱根の多田満仲塔(写真1)は、大蔵派の棟梁と目される大蔵安氏の手になることが、銘文から確認できます。これらの技術影響を受け、14世紀の初頭には関東式宝篋印塔が定型化します。例としては、鎌倉安養院塔(1308年)がこれに該当します。このように大型塔については、流行の発端たるモデルタイプ形成に大蔵派石工が関わった事実を考えると、造塔活動は西大寺流律宗の教線拡大に関連することがわかると思います。

画像3

写真3 鎌倉安養院塔(1308年)
 「関東式」が定型化した初期段階の塔です。

画像4

写真4 安養院塔の反花座
 反花は二重の複弁を刻出し、ぼってりとした量感があります。見事な格狭間を表現しています。

画像5

写真5 市原市常住寺の宝篋印塔・五輪塔(南北朝初期)

画像6

写真6 常住寺宝篋印塔の反花座
反花の表現が二重の複弁であることなど、定型化初期段階の安養院塔に近い特色を示しますが、やや意匠はぬるく、退化現象が感じられます。

 ちなみに市原においては、大蔵派石工と直接関連するような時期の例は見あたりませんが、初期関東形式宝篋印塔の影響を受けたと見られる南北朝でも古い時期の中・大型塔が3基(常住寺塔(写真5)・医王寺塔・上細工田遺跡出土塔)、やや形骸化が進んだ南北朝から室町期にかけての塔が2基(平将門塔・海士有木十三重塔基部に転用された反花座)遺存します。一つの市町村としては驚くべき数で、特殊地帯と言えましょう。

 特に常住寺は覚園寺の末寺として鎌倉時代後期に遡ることが文献史料から知れることもあり、仏教の面からも鎌倉との関連が濃厚な地域であったことがわかります。
 なお、室町期になると次第に意匠が退化し、大型塔も減少します。

五輪塔(ごりんとう)

画像7

写真1 奈良県当麻町鎌田氏塔(平安末期)

 五輪塔は密教思想のなかから生まれた日本独自の形状で、平安中期頃から出現します。五大思想を反映し、空輪・風輪・火輪・水輪・地輪の五部位からなります。石造物としては、当初は供養塔として造立されました。
 岩手県中尊寺の釈尊院塔が仁安四年(1169)年銘を有し、現存する最古の例になります。このほか、平安末期には大型塔の造立が全国に幾例かあり、関東では茨城県つくば市の多気太郎塔(写真2)が知られています。これらはみな、重厚な形状を特徴とします。(注意)つくば市気太郎塔の造立年代は、鎌倉前期と言われていますが、なお検討の余地を残すものです。しかし明らかに西大寺系五輪塔とは別の系譜に属する大型塔で、関東の資料としては特筆すべきものと判断します。

画像8

写真2 つくば市多気太郎塔(鎌倉前期か)

 鎌倉時代後期は、先に述べた伊派や大蔵派石工により西大寺系五輪塔のスタイルが確立され、爆発的に全国に波及します。これ以降、五輪塔の形状推移は、西大寺系スタイルの退化過程を追うことが主になります。
 西大寺系五輪塔としてまず特筆されるのが奈良西大寺の叡尊塔で、正応3年(1290)の造立とされています。「繰形座」と呼ばれる反花を刻出しない台座が出現します。恐らく伊派の作品と思われます。
 関東におけるこの時期の例としては、箱根の曾我兄弟供養塔(写真3)があります。永仁3年(1295)の造立で、こちらは大蔵派石工の手になるものと思われますが、西大寺中興の祖である叡尊の供養塔に比べると、若干意匠は落ちるようです。この点では、嘉元元年(1303)年に鎌倉極楽寺で造立された忍性塔が、叡尊塔に匹敵する意匠を誇っています。この塔は須弥壇を表すなど台座が大型化し、その上面に見事な反花を刻出しています。大蔵派の代表作として恥じない優品です。

双方とも、西大寺系の五輪塔とは系譜を異にするもので、重厚です。

画像9

写真3 箱根の曽我兄弟塔(1295年)
なお、右端の塔は『餓鬼草子』に描かれている五輪塔のようなイメージを残しているので、やや古い系統の影響があるのかもしれません。

 これ以降、関東では西大寺流律宗教線の拡大があり、忍性塔に続き、茨城県つくば市三村山の五輪塔や鎌倉浄光明寺覚賢塔が大蔵派石工により相次いで造立されました。大蔵派石工の活動は、鎌倉幕府の滅亡とともに歴史上から消えてしまいます。端正で芸術的な西大寺系五輪塔は南北朝期に広く流行し、関東各地の石工によって次々と模倣されますが、意匠は崩れます。中高根常住寺の五輪塔(写真5)もこの流れに属するものと思われます。

画像10

写真4 奈良西大寺の叡尊塔(1290)
西大寺系の初期五輪塔で、端正な質感があります。伊派の代表作と思われます。

画像11

写真5 鎌倉極楽寺の忍性塔(1303)
西大寺叡尊塔に匹敵する大蔵派の代表作です。

画像12

写真6 つくば市三村山の五輪塔
忍性が鎌倉入りするまで本拠を置いた三村山極楽寺の跡地にあります。

画像13

写真7 反花座のアップ
反花も定型化する前の段階と思われ、意匠に独創性が見えます。

 やがて室町期になると地域色が加味され、その端正な意匠も崩れ、形状は退化の一途をたどります。市原市八幡の御墓堂五輪塔(写真8)や馬加康胤塔(写真9)、大坪福楽寺塔(写真10)などがその例です。一方、大型塔に代わり小型塔が全国的に増加し、墓塔としての利用も増え、民衆が造立(購入)階層の主体を占めるようになります。
 なお、西大寺系以前の流れをくむ五輪塔も若干存在するようですが、管見の限り市原市内に例はありません。

画像14

写真8 市原市御墓堂の五輪塔

画像15

写真9 市原市無量寺の馬加康胤塔

画像16

写真10 市原市福楽寺の五輪塔

 これらは室町から戦国期にかけての中型塔で、常住寺塔に比べると型式の退化が見られます。全国的に地域性も反映されてきます。大型塔はほとんど見られなくなり、小型の個体が爆発的に増えていきます。

この記事に関するお問い合わせ先

市原歴史博物館

〒290-0011 千葉県市原市能満1489番地

電話:0436-41-9344
ファックス:0436-42-0133

メール:imuseum@city.ichihara.lg.jp

開館時間:9時00分~17時00分
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始