010新井花和田遺跡にみる縄文人の移動について

更新日:2022年04月18日

牧野光隆

 新井花和田遺跡は、標高130メートルを超える独立丘陵上につくられた環状配置の集落跡です。昭和59年と平成元年に発掘調査がなされ、縄紋時代早期後半の竪穴建物跡11軒などが検出されました。平成20年現在判明している限り、市内で最も古い集落の跡です。
 標高130メートルから138メートルの独立丘陵上に、竪穴建物跡や炉穴・陥し穴などの遺構が環状構成をなしています。丘陵頂上部以外は傾斜地であり、その地形をうまく利用したかのように遺構が配置されているのです。そして、頂部の遺構を覆うように、1辺約15メートル四方の三山塚が江戸時代に築造されました。縄文時代の遺構は、その塚の盛り土に上から蓋をされた状態となったために、早期のこの時期の竪穴建物跡としては、まれにみる良好な保存状況で発見されたのです。現在は調査した地区に新井浄水場が建設されていますが、東及び南方向隣接地の遺跡は、今なお残っているものと思われます(注釈1)。

白い服と帽子を被った人が作業をしている新井花和田遺跡調査風景の写真

上 新井花和田遺跡調査風景

 手前は038竪穴建物跡の埋まる過程を観察する土層断面図を作図しているところです。奥はグリッドごとに掘り下げて遺物包含層の調査をしています。

 よく「環状集落」と表現しますが、それは長い長い営みを経た上で、結果として地面に環状の配置痕跡を残したものです。一時期に同時にそのような形状で暮らしていたわけではありません。もちろん環状という形を意識しつつ遺構(竪穴住居など)を作り続けたことは確かでしょう。そのような意識がなければ、各地で環状集落が発見されることはないでしょう。
 花和田遺跡の場合は、遺構の重複関係が少ないことが特徴的です。このことだけをみると、遺跡の存続期間は極めて短かったと推定することができます。なぜなら、使用中の建物や屋外炉施設がある場所には、もうひとつ新たに次の穴を重ねて作らないと当然のことながら推定できるからです。ところが、出土遺物をみると、そう単純には考えられないようです。

066号竪穴遺物出土の写真 詳細は以下

上 066号竪穴遺物出土

写真右側の土器片集中部分をみると、竪穴が埋まりつつある土のなかに、土器が多量に廃棄されたかのような状況であったことがわかります。竪穴の床面からだいぶ浮いた出土状態であることがみえるでしょうか。この中には、田戸上層式から子母口式を経て、野島式にいたるまでの土器片が含まれていました。
 開いている小さい穴は柱の跡とみられます。

 例えば、出土した土器全体をみわたすと、縄文時代早期の中葉から後葉にあたるとされる、田戸上層式期の新段階から子母口式期を経て野島式期の古い段階(今からおよそ8000年程前)にかけての3つの土器型式で構成されていることがわかります。つまり、その限られた時期において、この土地を利用していたものと考えてよいでしょう。ただ、限られたと言っても、一つの土器型式は、近年のC14放射線炭素測定の成果からみても、100年以上の単位で想定されるような事例が検証されています。つまり、可能性としてですが、この地を100年以上の期間で利用したことが想定されるわけです。
 しかし、出土遺物の多かった066号竪穴(右写真参照)では、その時期の新旧混ざった土器が一括して廃棄されたとみられる状態で出土しています。遺構数の少なさに比べ、出土する遺物の想定期間が長すぎるとも考えられます。周辺未調査地域にさらに多数の遺構がないとも言えませんが、このことはひとまず今後の検討課題とするしかありません。

 出土した土器の文様などの特徴や組成をみると、南北に長く延びる行政的市域内の北半の遺跡ではあまり類例をみません(注釈2)。市北半部に位置する片又木遺跡や海保野口遺跡・今富大作頭遺跡・今富大道遺跡・小田部新地遺跡などのいわゆる子母口式・野島式の土器とは様相を異にしているのです。例えば、田戸上層式新段階から子母口式にかけての土器は、どちらかといえば木更津市かずさアカデミアパーク関連の台木A遺跡などに類例がみられ、その土器は遠く静岡県沼津市などでみられる特徴をもちます。野島式の段階になると、野島式の分布の西側に多くみられる沈線のみでモチーフが描かれた土器も、ここで出土しています。
 このようなことから、上総丘陵の尾根伝いに、西方から東へとひろがっていった縄文早期の人々の動きを想定することができます。
 決して継続的な定住とは言えない遺構の分布状況から、このような形を「季節的」と表現されることもありますが、毎年のとある季節における定期的な使用で、100年間という状況は考えにくいものがあります。同じ集団が、もっと長いスパンでの他地域との往復移動的な生活を繰り返した結果なのかもしれません。(注釈3)

101号炉穴の写真 詳細は以下

上 101号炉穴
 早期後半に特徴的な炉穴です。長楕円の穴の一端で火を焚きます。激しく増築を繰り返すことで大きくアメーバ状に広がる炉穴も各地にみられます(遺跡ファイルの奉免上原台遺跡画像参照)。
 この炉穴はこじんまりとしたもので、炉の燃焼面は3ヶ所でした。穴の底がやや赤く焼けて見える部分が炉床面になります。焼土の堆積の中から、燃えたクルミ殻がまとまって出てきました。

 さらに、竪穴や土器以外の遺構と遺物もみてみましょう。周囲に掘られた陥し穴は動物を捕るための穴です。動物を射るための弓矢に使う黒曜石の矢じりも多く出ています。炉穴は、調理するための設備です。101号炉穴(右写真)からは、炭化したクルミの殻が、手のひらいっぱいくらいみつかりました。49号炉穴からはそのような堅果類をすりつぶしたとみられる石皿も出土しました。どれも縄文という時代に一般的な生活スタイルです。一時的な生活といえども、なんら特殊な暮らしぶりはみられませんでした。
 今でも新井浄水場に立つと、孤高の縄文集落、などと表現したくなるような絶景的な風景がひろがっています。しかし、縄文の人々にとって、この地は単なる生活の場であり、移動しつつ暮らした通過点のひとつだったのかもしれません。

注釈

  1. 早期後半の子母口式期の集落跡は、県内はもちろん他県においても調査事例が少ない時期であり、明確に「集落」と呼べる状況を構成するには早い段階とみられます。その後の野島式期以降から、集落としての形をとる遺跡が多くなってくるのです。そのような点でも、花和田遺跡は貴重な調査事例でした。
  2. これが、縄文時代の中期になると、市域の北から南まで分布する遺跡から出土する土器の姿に、それほどの差異がみられなくなります。このことは、行動範囲の広がりとともに、土器製作の文化圏も単一化したことを意味するのでしょう。
  3. では、この場所にいない季節は、どこにいたのでしょうか。市域南部の丘陵地は、いまだ調査事例が少なく、この時期の遺跡はみつかっていないため、なんとも言えないのが現状です。ただ、もっと住み易い場所はいくらでもあったはずです。この地に浄水場がつくられた理由は、浄化した水を市域に送水するために高低差を必要として、周辺でも高い場所を選んだからです。このことからも、現代的に考えるならば、わざわざ登っていかなければならない不便な立地と想定できます。水源も遠いこのような独立丘陵上に登ってまで住む理由はいったいなんだったのでしょうか。

参考文献

財団法人市原市文化財センター 『新井花和田遺跡』 2001年

財団法人千葉県文化財センター 『市原市海保野口遺跡』1998年

財団法人君津郡市文化財センター 『台木A遺跡』 1995年

小林謙一 2007年「縄紋時代前半期の実年代」『国立歴史民俗博物館研究報告第137集』 国立歴史民俗博物館

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