ノート012菊間古墳群【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

小橋健司

クレヨンで塗ったような色合いの菊間古墳群の配置を表したイラスト画像

菊間古墳群の構成

 菊間古墳群は村田川下流左岸の台地上に展開する前方後円墳を中心とした古墳群です。その周辺の村田川下流域から中流域にかけては、北岸の草刈古墳群、南岸の大厩古墳群、潤井戸周辺の古墳群があり、古墳時代の遺跡分布の濃い地域として知られています。
 南岸には200基以上にのぼる古墳が知られ、下流域から上流に向けて時期の新しくなる傾向が認められます。北岸ではちはら台遺跡群が大規模に発掘調査されたほか、いくつかの遺跡が調査されており、村田川流域には古墳時代の有力集団が複数存在した可能性が高いと考えられています。

菊間天神山古墳がオレンジの丸、発掘で見つかった古墳を緑の丸で表した地図のイラスト

盛土のなくなった周溝だけの古墳(近藤1987年・斎木ほか1974年より)

 菊間古墳群には現在もいくつかの古墳の墳丘が残っており、墳丘の測量調査が実施されているほか、部分的な発掘調査が行われています。現時点でわかっているだけでも、前方後円墳3基(北野天神山古墳・東関山古墳・姫宮古墳)、前方後方墳1基(新皇塚古墳)、円墳13基、方墳33基、と総数50基にのぼります。古墳群周辺の発掘調査では墳丘を失った古墳が多く見つかっているので、もともとは大小織りまぜて台地上にかなりの数が展開していたようです。

前期(3世紀後半〜4世紀中葉)

 近畿地方を中心にして前方後円墳が築かれ始めるのは3世紀後半のことです。菊間古墳群とその周辺にも、国分寺台地区の神門古墳群のような古墳の先駆けが存在したかもしれませんが、当地域で大型の前期古墳として明確なのは菊間新皇塚古墳です。

背景が緑色の菊間新皇塚古墳全体図の画像

菊間新皇塚古墳全体図(斎木他1974年より)

 新皇塚古墳は墳頂中央に埋葬施設のある方墳のような状態で遺存していましたが、調査前に削平を受けた前方後方墳である可能性が強いと見られています。
 後方部にあたる方形の墳丘上には細長い粘土槨2基が隣接して築かれており、南北に推定される主軸に対して直行する向きに配置されています。2基とも盗掘等の破壊を免れており、副葬品の伴う割竹形の木棺痕跡が発見されています。
 先に構築されたと見られる南槨には9.8メートルの木棺痕跡の中に、小型の青銅鏡(珠文鏡)1・鉄製槍先1・大刀1・刀子1・鎌1・ヤリガンナ2・斧1・管玉5・ガラス玉1が検出され、被葬者の頭位を東とすると胸部にあたる位置周辺に赤色顔料が散布されていました。

発掘された新皇塚古墳南槨副葬品の絵で描いた画像

新皇塚古墳南槨副葬品(斎木ほか1974より)

発掘された新皇塚古墳北槨副葬品を絵で描いた画像

新皇塚古墳北槨副葬品(斎木ほか1974年より)

発掘された新皇塚古墳北槨副葬品を白黒の絵で描いた画像

新皇塚古墳北槨副葬品(斎木ほか1974年より)

発掘された新皇塚古墳北槨副葬品を絵で描いたイラストが2枚並んでいる画像

新皇塚古墳北槨副葬品(斎木ほか1974年より)

 北槨では10.7メートルの木棺に小型の青銅鏡(内行花文鏡)1・石釧(緑色細粒凝灰岩)1・勾玉(水晶1・琥珀1)・管玉(緑色頁岩)94が検出され、棺外からも北側粘土部から鉄剣1・鎌1・刀子2・鋤鍬先1・錐(?)1、南側粘土部から刀子2・鎌1・ヤリガンナ1・斧1が埋め込まれたかたちで出土しています。    
 副葬品の他にも新皇塚古墳の墳丘上からは、墓に置くことを前提に、焼き上げる前に底部をあらかじめくり抜いた壺形土器が発見されています。
 壺の形と副葬品の組み合わせからすると、新皇塚古墳は古墳前期後半に構築された可能性が高く、比較的短期間のうちに2基目の埋葬施設が設けられたものと考えられます。豪華な副葬品が被葬者の地位の高さを示しているとすれば、近い間柄にあった二人の有力者が葬られたのでしょう。

線対象になっている丸いつぼ型土器の全体的にピンク色のイラスト画像

菊間小学校遺跡・新皇塚古墳・大厩浅間様古墳出土壺形土器(左から:本村1975年・斎木ほか1974年・浅利1999年より))

左のイラストの下に縮尺が描かれたイラスト画像
線対象に鳴っている鉢型土器の下に小さい四角のようなものが5つ並んだイラスト画像

 ところで、東京国立博物館には菊間小学校から出土したとされる土師器の二重口縁壺が保管されています(本村1975年)。新皇塚古墳のように、古墳に置くために焼き上げる前に底があらかじめくり抜かれている壺が作られる事例があることからすると、墳丘形状はまったく不明ですが、菊間小学校の近くに前期古墳があったのかもしれません。
 壺形の大型土器は、少し上流の台地上に築かれた直径約50メートルの大厩浅間様古墳(前期末)でも墳丘上に並べられています。これらは、この時期にまだ菊間古墳群周辺に円筒埴輪を樹立する文化が到来していなかったことを示す興味深い資料といえます。

中期(4世紀後葉〜5世紀代)

 古墳時代中期は全国的に前方後円墳が大型化する時期で、各地の最大規模の古墳がこの頃に作られました。
 菊間古墳群と周辺では、潤井戸高野前(うるいどこうやんめえ)古墳に中期の大型前方後円墳である可能性があります。姉崎地域に展開する姉崎古墳群中の姉崎二子塚古墳も、中期に属し平野部に立地する全長110メートルの大型前方後円墳ですので、推定全長90メートルの高野前古墳に同時期の有力者が葬られていたとしても不思議ではありません。出土品を検討できればより明確に位置づけられるのですが、残念なことに高野前古墳は現存していません。

全体的に緑色で描かれた潤井戸高野前古墳推定図の画像

潤井戸高野前古墳推定図

 菊間古墳群内では、北野天神山古墳・東関山古墳・手永台2号墳・菊間天神山古墳・菊間遺跡5号周溝(円墳)が中期の古墳と推定されています。
 手永台2号墳・菊間天神山古墳・菊間遺跡5号周溝は、菊間手永遺跡・菊間遺跡の調査で周溝覆土等から円筒埴輪片が出土しており、それぞれ中期末から後期初めの年代を与えられています。
 北野天神山古墳については、発掘調査が行われていないためはっきりとはわかりませんが、推定平面形と、後円部の向きが後期古墳と考えられる東関山古墳・姫宮古墳と異なる点を参考に、中期に属する可能性が指摘されています。

版画のような白黒の手永台2号墳の画像

手永台2号墳(左)・菊間天神山古墳(右)周溝出土円筒埴輪(近藤1987年より)

左の画像同様に版画のような白黒の菊間天神山古墳の画像

後期(6世紀)

 後期に属する可能性のある古墳は東関山古墳です。現存する東関山古墳の墳丘は周囲から大きく削られて変形・縮小していますが、最近の発掘調査で東関山古墳の本来の墳丘規模を示す痕跡がいくつか確認されました(高橋1995年・小川2003年・木對2004年)。
 周辺区域の発掘調査によって明らかになった周溝外周の推定位置を考慮すると、図のような推定全長90メートルの大型前方後円墳が復元できます。

前方後円墳の縮尺や等高線などが描かれた図の画像

東関山古墳推定復原図(木對2005年より)

墓の主

 市原市には約1600基の古墳が確認されており、そのうちトップクラスの規模の古墳がこの菊間古墳群周辺と姉崎古墳群に集中していることがわかっています。
 前方後円墳の時代には、被葬者の事績を記した墓誌を副葬する習慣がなかったため、いくら大規模な古墳であっても測量と発掘調査だけで葬られた人物を特定するのはきわめて困難です。しかし、市内における大古墳の偏った分布状況や現在まで伝わる地名などを合わせて推測すると、菊間古墳群には、関わりがあってしかるべき古代の有力者、「菊麻国造」の名前が浮かび上がります。

ククマのクニノミヤツコ

 文字に記された歴史より昔、いまの市原市にあたる地域には上海上(かみつうなかみ)と菊麻(くくま)のクニがありました。上海上は養老川流域、菊麻を村田川流域に当てるのが定説となっています(この地名と同じ音は8世紀はじめ成立の古事記に記された「玖玖麻毛理比売ククマモリヒメ」という人名にも見らます。ククマがどこかの時点でキクマに変化したのでしょう)。
 このククマの地には、のちの時代に国造(くにのみやつこ)と呼ばれる有力者がいました。それは国造本紀(こくぞうほんぎ)という古文献に記された各地の国造の系譜に名前のあることからわかります。菊麻国造は大鹿国直、上海上国造は檜前舎人直(ひのくまとねりのあたい)とされており、国造本紀が編集された7世紀の時点で、各豪族の主張する系譜にある人名が採録されたと考えられています。
 (ちなみに、現在千葉県北部にあたる下総(しもうさ)にも海上という地域がありますが、そちらは下海上(しもつうなかみ)と呼ばれました。もともと、総(ふさ)と呼ばれた一つの地域があって、大化の改新(乙巳の変)後に分けられたのが、上総(かみつふさ→かずさ)と下総(しもつふさ→しもうさ)です。同じ総の一地域であるうちは区別するために上つ・下つを海上に付ける必要があったのでしょうが、別の国になったため呼び分ける必要がなくなり、それぞれをたんに海上と呼ぶようになったものと考えられます。また、上・下というのは当時の政治的中心地である畿内から海の道、古東海道沿いに見る遠近をふまえた表現なのでしょう。)
 さて、6世紀代に始まったとされる国造制は大化の改新(乙巳の変)によって7世紀半ばに令制の国郡制に切り換えられるまで続きますので、それに伴って菊麻国造は、国造から市原郡の郡領へと変貌することになります。古代市原郡を統括する郡領は国造という首長の変転した姿であり、その国造は前代に地域の権力者がヤマト王権に取り込まれた関係性を体現していたというわけです。
 つまり、古代をさかのぼった古墳時代には菊間周辺にククマ国造とその祖先たちがいたと想定でき、菊間古墳群は国造に連なる有力者たちの葬られた墓所である可能性が高いと考えられるのです。

まとめ

 のちに国造と呼ばれる有力者がこの菊間の地に生み出された背景の一部には、弥生時代以来、水田耕地として利用できる可能性を秘めた地形にめぐまれた影響があったのかもしれません。
 6千年前の縄文時代前期、氷河期に深く刻まれた谷に縄文海進の波は押し寄せ、火山灰の積もった軟らかい台地を大きく削りとりました。のちに寒冷化し再び海水面が下がったときに残されていたのは、そびえ立つ海蝕崖と、波食台から海岸へ広がる沖積地と干潟、そして岩石を含まない堆積物で埋まった谷底平野でした。そこに弥生人が農耕を採り入れ、暮らし初めて数百年、統率者から権力者が生まれて代々墓所を営んだのです。
 国造・郡領という称号には、地方豪族としての独立的な性格が徐々にそがれ、律令制組織の一部として吸収されていった様子が暗示されています。菊間古墳群は、地域の権力者の出現から中央政権へ埋没する過程の一こまを物語る、重要な遺跡のひとつと言えるでしょう。

-参考文献-

  • 大村 直・小橋健司 2005年「GISと遺跡情報管理」『市原市文化財センター研究紀要』V 財団法人市原市文化財センター
  • 篠川 賢 1985年 『国造制の成立と展開』吉川弘文館
  • 篠川 賢 1992年 「「国造本紀」の国造系譜」『国立歴史民俗博物館研究報告』第44集
  • 白井久美子 2003年「215 菊間古墳群」『千葉県の歴史』資料編 考古2(弥生・古墳時代)県史シリーズ10 千葉県
  • 永沼律朗 1995年『千葉県重要古墳群測量調査報告書 -市原市菊間古墳群-』千葉県教育委員会

-遺跡出典-

  • 菊間遺跡:
    斎木 勝・種田斉吾・菊池真太郎 1974年『市原市菊間遺跡』財団法人千葉県都市公社
  • 菊間手永遺跡・菊間天神山古墳:
    近藤 敏 1987年『菊間手永遺跡』財団法人市原市文化財センター
  • 菊間深道遺跡:
    高橋康男 1994年『平成5年度市原市内遺跡発掘調査報告』市原市教育委員会
  • 東関山古墳:
    小川浩一 2003年『平成16年度市原市内遺跡発掘調査報告』市原市教育委員会
    木對和紀 2004年『平成17年度市原市内遺跡発掘調査報告』市原市教育委員会
  • 大厩浅間様古墳:
    浅利幸一 1999年『市原市大厩浅間様古墳調査報告書』財団法人市原市文化財センター
  • 菊間小学校遺跡:
    本村豪章 1975年「上総・市原市菊間小学校遺跡についての一考察」『MUSEUM』第288号 東京国立博物館

関連リンク

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