ノート037櫛描文を読む【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

小橋健司

 市内姉崎地区に広がる山新(さんしん)遺跡の発掘調査では、大型前方後円墳、姉崎二子塚古墳の周りに多くの円墳が発見されました。山新遺跡は昔の砂丘の上にあるため砂地で、古墳の墳丘も砂で作られていたらしく、長年の風雨で流されたり、土木工事で平らにならされたりして地上にはまったく痕跡がありませんでした。掘り下げて初めて周溝を検出し古墳の存在がわかったのですが、その円墳周溝の一つ、48号遺構から、興味深い特徴を持った円筒埴輪が出土しています。

48号遺構を赤丸で記され、山新遺跡調査区と赤姉崎二子塚古墳を示した地図

姉崎山新遺跡第3地点48号遺構の位置と検出状況

遺跡が掘り下げられ、姿を現した遺構と遺跡で作業をしている方々の写真

姉崎山新遺跡第3地点48号遺構(円墳周溝)出土の円筒埴輪

茶色で下部に丸い穴があいていおり、波状の模様がある出土した破片と粘土でよみがえった円筒は埴輪の写真
茶色で上部にに丸い穴があいていおり、下部には黒斑がある出土した破片と粘土でよみがえった円筒は埴輪の写真

黒斑のある円筒埴輪

出土した破片と粘土でよみがえった円筒埴輪が描かれ、黒斑の場所が黒くしめされた円筒埴輪のデッサン画

埴輪の焼き具合

 山新遺跡48号遺構出土埴輪の、第一の特徴は黒斑(こくはん)があることです。埴輪には、窯で焼かれるものとそうでないものがあり、前者の場合、窖窯(あながま)という斜面に築かれたトンネル式の窯が用いられます。
 窖窯焼成技術は朝鮮半島から古墳時代中期初頭(4世紀末頃)に伝わり、続いて中期中頃に埴輪生産に応用されたと考えられますので、黒斑のある山新遺跡の埴輪は古墳時代中期前半に作られた可能性が考えられます。

櫛描文様

 第二の特徴は櫛描文(くしがきもん)が描かれることです。櫛状工具で描かれる文様は、弥生時代中期や古墳時代前期の土器(詳細は下記リンク「東海地方風の壺形土器(長平台)」をご覧ください)には認められますが、通常、埴輪にはほとんど見られない技法です。山新遺跡の埴輪には、斜格子(しゃこうし)を構成するもの(斜格子文)、波状に横向きに施されるもの(波状文はじょうもん)、弧線が向き合う巴(ともえ)状のもの(巴状文)が櫛状工具によって施されています。

姉崎二子塚古墳の櫛描斜格子文の円筒埴輪 (小橋2010年より)
櫛描斜格子文の模様がある円筒埴輪の破片の写真

類例

 この山新遺跡の櫛描文には似た資料がいくつか知られており、近辺では、姉崎二子塚古墳と椎津五霊台(しいづごりょうだい)遺跡で見つかっています。五霊台遺跡の資料は戦国時代に椎津城を作る際に壊された大型古墳「椎津外郭(とぐるわ)古墳」に由来する可能性があるものです。これらの存在からすると、おそらく、姉崎・椎津地域には埴輪制作の場で櫛描文の伝統が共有されていたと考えて良いでしょう。

椎津五霊台遺跡(外郭古墳か)の櫛描文埴輪 (高橋1998年より)
4つの出土品の破片に描かれた模様を記しているデッサン画

 興味深いのは、同じ内房地域において、富津市の内裏塚(だいりづか)古墳と富士見台2号墳に、櫛状工具ではなくハケメ工具による波状文・櫛描文の埴輪が認められるということです。内裏塚古墳例では、波状文が凸帯間に大きな振幅で描かれ、富士見台2号墳例では最上段に斜格子文が施されています。内裏塚古墳の埴輪は木更津市の畑沢埴輪窯で焼かれたことが判明しており、山新遺跡例より新しいようなので、櫛描文の影響によりハケメ工具による文様が生み出されたのでしょう。

 さらに、波状文・櫛描文の埴輪は、遠方の霞ヶ浦北岸(茨城県行方市付近「高浜入り」地域)に集中して発見されています。小美玉市神楽窪古墳と権現山古墳ではハケメ工具による波状文、かすみがうら市の富士見塚古墳では櫛状工具による波状文が描かれています。

富津のハケメ工具による文様の埴輪 (白井他2012年、平野・諸墨1987年より)
内裏塚興奮の波状模様を記した波状文埴輪のデッサン画
富士見台2号墳の斜格子模様を記した斜格子文埴輪のデッサン画
霞ヶ浦沿岸の波状文埴輪 (杉山他2006年、本田2002年より)
左:神楽窪古墳で出土された埴輪の模様を記したデッサン画 右:権現山古墳で出土された埴輪に波状の模様が記されたデッサン画
川子塚古墳、権現山古風・神楽窪古墳、富士見塚古墳、姉崎二子塚古墳・山新遺跡、椎津五霊遺跡、内表塚古墳、富士見台2号墳の箇所を赤丸で記した地図
富士見台古墳で出土された埴輪の模様を記したデッサン画

埴輪生産の性質

 埴輪は焼き物の一種ですが、縄文土器・弥生土器とは異なり、専門の人たち(工人(こうじん)集団)が製作していたと考えられます。というのも、埴輪が日用品ではなく、有力者の墓を作るときだけに必要な特別な焼き物だったからです。このことは、埴輪に日常生活で接触できる、ましてや作る場面に立ち会える人が限られていたことを意味します。土器であれば「作る人」は「使う人」でもあり、生活のなかでデザインなどが広まるわけですが、埴輪の場合はデザインや技術の伝わるルートが限られているのです。つまり、市原の埴輪の特徴が他地域と共有される状況は、もちろん偶発的な「他人のそら似」かもしれませんが、埴輪生産の場において交流があった可能性を物語っているのです。
 山新遺跡例が黒斑を持つ古い埴輪であることからすると、市原の姉崎・椎津地域と霞ヶ浦北岸の櫛描文埴輪では、市原の方が古く位置づけられますので、おそらく市原の生産地で窖窯焼成の埴輪に櫛描文が導入され、そこから、霞ヶ浦北岸地域へ供給した別の生産地に埴輪生産技術の一部としてもたらされたと考えて良いのではないでしょうか。

常総型石枕の分布 (千葉県教育振興財団2011年より)
常総型石枕の分布を示した地図

まとめ

 両地域、東京湾東岸から霞ヶ浦北岸を最短経路でつなぐのは、印旛沼・現利根川下流域に広がっていた「香取の海」と呼ばれる内海です。直弧文(ちょっこもん)で有名な姉崎二子塚古墳などの石枕(いしまくら)は、この香取海沿岸の常総地域が分布の中心であり、これもまた墓専用品の一つです。注目すべきは、櫛描文・波状文の埴輪と常総型石枕の広がり方を重ねて見ると、姉崎・椎津地域は石枕の南限にあたり、両者は似たような傾向を示すことです。

 埴輪と石枕の共通点は、古墳を築造し豪華に整えるために必要な品であるということ。つまり、その分布のあり方は、有力者同士の何らかの関係を反映していると見て良いでしょう。古代の交通路では上総-下総-常陸は東海道に属し駅路が結ばれていることからすると、埴輪と石枕の分布は、古墳時代に用いられた水上交通の両端にあたる地域の権力者同士が結んだ関係の一面をあらわしているのかもしれません。

出典

  • 小橋健司2008年「千葉県市原市姉崎山新遺跡の櫛描文埴輪」『埴輪研究会誌』第12号 埴輪研究会
  • 小橋健司2010年「千葉県市原市姉崎二子塚古墳の櫛描文埴輪」『埴輪研究会誌』第14号 埴輪研究会
  • 笹生 衛1990年『千葉県中近世城郭研究調査報告書第10集-椎津城跡・大堀城跡発掘調査報告-』千葉県文化財センター調査報告書第185集
  • 白井久美子他2012年『研究紀要』27 財団法人千葉県教育振興財団
  • 杉山晋作他2006年『富士見塚古墳群』考古学研究室報告乙種15冊 国士舘大学考古学研究室・茨城県かすみがうら市教育委員会
  • 高橋康男1998年『市原市五霊台遺跡』財団法人市原市文化財センター調査報告書第64集
    (詳細は下記リンク「 市原市文化財センター・刊行物PDF」の「第64集  五霊台遺跡」の箇所をご覧ください。)
  • 千葉県教育振興財団2011年『平成23年度出土遺物巡回展-房総発掘ものがたり- 古墳に眠る石枕』
  • 平野雅之・諸墨知義1987年『富士見台遺跡』財団法人君津郡市文化財センター発掘調査報告書第26集
  • 本田信之2002年「玉里村神楽窪古墳出土の波状文を施す埴輪-霞ヶ浦高浜入りを中心として-」『玉里村立史料館報』Vol.7

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