KD-01 祇園原貝塚・瓦窯跡

更新日:2022年04月25日

祇園原貝塚発掘調査写真

縄文時代の後期から晚期まで約1000年間続いたムラで、100体を超える人骨やまつりを行った大型建物跡などが見つかりました。堅穴建抱跡などのくぼ地を除くと貝層の密度は高くありませんが、奈良時代に国分尼寺を造営した際、貝塚を整地した可能性があります。貝殻や土器片が散布する雑木林の斜面からは、平安時代初頭に尼寺の補修瓦を焼いた瓦窯跡も見つかっています。

祇園原貝塚

祇園原貝塚空撮写真
祇園原貝塚は、縄文時代の後期から晩期初頭にかけて営まれた大規模集落跡です。
縄文時代早期(約11500年前)の遺構(竪穴住居跡や墓跡等様々な生活等の痕跡)が確認されており、遺跡北端部に数基の炉穴が営まれますが、散発的です。その後、明確に定住が認められるのは縄文時代後期初頭(約4500年前)、称名寺式期からであり、次代の堀之内式期になると遺構数が急増する様子がうかがえます。
堀之内式期になると、中央の凹み(広場)を中心に集落が営まれていた様子が明らかとなり、縄文時代晩期初頭(約3300年前)まで続きます。
この貝塚からは、多数の埋葬人骨が出土しており、屈葬、伸展葬、土器被り葬、土器棺葬のほか、一度埋葬した複数遺体を集めて再び埋葬する集積墓など、多様な埋葬形態が認められます。

祇園原瓦窯跡

祇園原瓦窯跡
祇園原瓦窯跡は、上総国分尼寺の補修瓦を焼いた窯跡です。
上総国分寺の瓦窯は川焼瓦窯→南河原坂窯第1 期→神門瓦窯→南田瓦窯・南河原坂窯第2 期の順で変遷します。
平安時代初頭になると国分寺・国分尼寺それぞれ独自の補修瓦を使うようになり、国分寺の瓦を供給したのが南田・南河原坂瓦窯跡、国分尼寺の方が祇園原瓦窯跡です。
本窯跡は平窯と呼ばれる形態で、「海上」や「馬」の裏文字を凸面に印刻した平瓦、凹面に白泥で「畔」と書いた平瓦がみつかっており、海上郡馬野郷、畔蒜郡を指すものと考えられます。